なのかのお絵かき練習帳

戦国時代ぽい絵を練習中です。毛利、吉川がすき。時々BL要素あり注意。

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毛利一族の関ヶ原、みた

個人的に気になるテーマで面白かったです!感想とか書いちゃう

関ヶ原前日吉川広家&福原広俊が本多忠勝&井伊直政と起請文を交わしたことについてですが、広家だけでなく広俊が出てくる事で「毛利輝元=毛利家の意向」という信用度が高まるってのはそうですよねえ。毛利側も忠勝と直政で信じたわけだし、起請文交わした時点での信頼度や立場はひとまずイーブンかな?!

この事はよく、『本当に所領安堵の約束が守られると思ったの?』とバカにされるけど歴史の結果を知ってるから言える事で、毛利が背後から家康に攻めかかり、仮に万が一歴史が変わっていたとしたら、『そんな所通って本当に攻められないと思ったの?』になった事でしょう。どちらにとっても綱渡り的な面があったんじゃないかなと思います。

それと、輝元が広家の行動を黙認してたってのはさもありなんかなぁー。広家の言い訳の内容みると、一応途中で輝元に状況を報告し命令を待ったというようなことも記されてもいるのですが、返事はなかったっぽいのかな?とりあえず表向きは「知らなかった」で押し切れる形になっている感じはしますね。番組でも触れられていましたが、輝ちゃって薄弱なお坊ちゃまイメージと違って、野心が感じられたリ策を巡らせたり、その一方で保険かけたりと、なかなか狡猾な面ある感じしますな。そこらへんはなかなかどうして、やはり元就の孫なのです。

あとは、秀元が南宮山の陣から尾根伝いに桃配山に下って(広家陣回避ルート)家康を攻める事がそう簡単だったのかは気になるかも。直線距離でわずか3㎞との事だけど、実際は距離も険しさも疲労度もUPしないかな? 
南宮山→桃配山
(3月21日追記:分かりにくいので図にしてみた。グーグルマップを加工してます!)
地図でしか見た事ないんで所詮妄想ですが、道も悪そうだし霧もあるし武装した人1万5千なので降りるだけで時間も余計かかりそうな気はします。秀元が動いてもなんらかの対処出来そうな。そもそも家康がその件に本当に無策でいたのかどうか分かんないですね。

秀元は、内応知っていたにせよ知らなかったにせよどっちみち先陣動かんし、桃配山に攻め下ったとしても家康が陣引いたら挟み撃ちになるのは自分って事も考えられるし、状況と相談しつつ慎重にならざるを得ないよね~。

でも秀元がそっちから攻めたら広家どうしたのか気になるー!あと前も気になった事ある気がするけど、1万5千の兵って南宮山のどこにいたんだろ、陣の所にぎゅうぎゅういた…?のかな…?うーん気になる気になる!


かもん
↑そのうち使うかもしれんと思って描いてたけど面倒くさくて放置してる下り藤の三引両。いつか完成させたい…!

以下拍手コメント返信ですー
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  1. 2017/03/20(月) 20:16:14|
  2. ★戦国雑記
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(本の感想)

ちょっと体調不良気味で絵が進まず。アップできる絵は少しあるんだけど、あまりに汚すぎて微妙に気が進まないのと、あまりにアホ(不健全)すぎてアップしたらドン引きでは……ってのがあって、なかなか!


シリーズ・織豊大名の研究第4巻 吉川広家(光成準治編著)が届いてました。

内容が専門的で、読み進めるの大変! まだ全部読んでません。ただのコレクションになりそうな予感が……、笑。

こういう本ですと真摯に史実と向き合わねばならぬため、「私は自分に都合のいい広家像を妄想して、綺麗な夢を見ていたいんだわ」と思いつつも、ずっとある事柄に関心があったので覚悟して注文しました。期待通り(?)吉川家の関ヶ原後の偽書関連についても触れられておりまして、大変興味深く読めました。

あっ、書状を抜粋した文に説明はありますが通しでの現代語訳はないので意味がつかみきれない部分もありましたけど、それはまあ、私みたいなニワカは本来ターゲットじゃないと思うので諦めがつきます、勉強するしか!(しない)

で、総論だけ読んで興奮してツイートまでしてしまったんですが、私の中で一番興味深かったのは、「(関ヶ原合戦の南宮山における)毛利勢の先陣は恵瓊組とみなすべき」と書かれていた事です。


不勉強この上ない私が疑問をさしはさむなんて本当におこがましいのですが、素人かつあほの立場として、また闇雲に広家を贔屓するものとして、的外れになりがちな事は重々承知ながらも、個人的感想をいわせてください。

注:思いっきりスキキライの感情論と妄想メインで語ってます。

関ヶ原関連の広家案文(言い訳集)が全て信用できると思うかといえば、無論私も、全部は信用できないだろうと思います。やはり、「自分はこういう状況にあって、こういう理由があって、こういうわけで正しかった」と都合よく宣伝したい意図があって残したものだと思うからです。ただ、本書の説明に納得しかねる箇所もありました。

吉川家文書913号で広家が『当手之事ハ南宮山最前之陣取二候』と言っている事に対しては「合戦終結後の広家の主張は全面的に信用できない」とした上で、『土佐侍従陣から御弓鉄砲衆陣、安国寺陣足かかり能候条、是を切崩候てかさ陣へ可切上之由にて候』という記述については信用し「恵瓊を先陣とみなすべき」と言い切り、その後『長大・安国寺ハ人数(打出)たかり候つれ共、両人面白おかしく申候て、御人数出候ハて』という部分では「反徳川闘争決起の責任を恵瓊のみに負わせるためには、戦闘参加に積極的だった必要がある事から事実と異なる記述を行った蓋然性が高い」と書いてあるのですが、『土佐侍従陣から~(略)~可切上之由にて候』についてはなぜその法則を適用しないのかがよくわかりませんで、「蓋然性が高い」というより「可能性は否定できない」程度にしか捉えられませんでした。

ちなみに慶長6年(関ヶ原翌年)に書かれたとされる917号では、広家は「恵瓊は進軍してない。今の世上の讃談とは違う」というような事を言ってます。戦後すぐの日付の案文では「恵瓊たちやる気満々」的な事言っておいて、翌年の案文では真逆の事を主張している事になり、広家が自分の事だけは都合いい事しか書かないのだと考えれば、まあ腑に落ちます。そして、言われてみれば恵瓊先陣だった?と疑わせる記述でもあります。

これは「噂の内容は違う」という訴えなので、「讃談」があったという部分では嘘をつく理由はないと考えます。おそらく本当に、恵瓊はやる気満々で進んだように世間では噂されていたのでしょう。で、一方吉川は……とひそひそされていて我慢ならず、無視しておけば後世に伝わらなかったものを(笑)、どうしても自分の意見を主張したいという広家っぽい率直な理由で記述に及んだのではないかと思います。

「讃談」ですが、これが褒められていたとか評判だったという意味なら、計画失敗した挙句不戦でぼーっと終戦迎えてとんずらした人物にふさわしいとは評価とは思いづらく、やはり恵瓊は立派だったと捉えられていて、やる気もあったしもしかしたらそれが証拠に若干の交戦もした可能性があり、しかしながら毛利本隊は広家に止められてて動かないのでどうにもならなかった、当然止めていた広家の評判はダダ下がりだった、と解釈したくなるし、それが自然な気がしてしまいます。ちょこっと交戦にはなったけど進軍はできなかったという事なら、不足はあれど、913号と917号の主張にさしたる矛盾は生じません。単純に、なにがなんでもやる気があったなら行ける位置にいたのに実際はそんなことはなく、結局進みはしなかったと主張したい程度の意味なのではないでしょうか。

この頃だと軍法も厳しく抜け駆けなどはご法度なのかな~って思いますし、どんだけやる気あっても勝手に進めない事にさほど無理はないと思います。しかし本書の解釈に従うなら、恵瓊が先陣を務め一度は交戦しかけながらもやっぱり軍は止めていた事になり、なぜそうなった?と疑問が残ります。そして、東軍における、先陣福島正則を差し置いて井伊直政らが抜け駆けし開戦となったという話は俗説とも言われますが、霧の具合や布陣の具合、敵の進軍具合によっては、先手近くの一隊が偶発的に交戦しちゃう事ってありえるのではないかと思ってしまう所もありますし。

とにかく、もっとちゃんとした理由とか、他の資料からの補強とかあれば、もう少しすんなり納得できると思うのですが……。


ニワカ知識なのにさらに続ければ、他には、関ケ原合戦3日後、18日付の義演准后日記では「吉川両人於唐口降参云々、比興比興」とあるそうで、広家名指しでおまけに「降参」したと表現しており、卑怯卑怯と口惜しさをにじませています。これによれば広家メインで認識されている事、この事が噂に上っていた事は間違いなく、東軍と起請文を交わしていた事を合わせて考えても、やはり先陣で軍を止めていたのは広家なのではないかと思います(記述者が広家に対して憤っており、西軍に肩入れしていた事をうかがわせるもので、誇張もしくは誤認があるのではと思ったりもしますけど、広家が嘘言ってるってパターンになるんよね……。広家だけ降参したとして交戦とかトラブルになってないっぽい事、または障害物がなくなったのに恵瓊や秀元らがそれを無為に見過ごしてただけなんて変かなあっと。やはり勝手に軍を止めていたか、あるいは南宮山勢暗黙の方針とか消極性と考える方がしっくりする)。

まあ思うも何も本人が動かなかった事認めてるし、仮に先陣が恵瓊だったらその通り暴露して悪いのは恵瓊と言えばいいだけの所を、なぜ自分が動かなかったのか必死で言い訳していますからね。いかに本家のためを思っての事かと語る理由や経緯に誇張なども含まれていると考えられ、おまけに、いかに自分の働きが大きかったかという手柄をねつ造気味に強調したものだから真実が見えにくくなっているという話ですね。

黒田家等に正文がない3点に関しては、私もやっぱりねつ造気味のストーリーが追加されていると思ってますが、吉川家のこれら案文が自分たちに都合がいいだけの宣伝なればこそ、広家の働きかけに家康が心動かされたとかいう逸話は当然事実でないという事になり、この案文が当時何らかの効果を発揮したとは思えません(といっても、後に広家が息子宛て書いた訓示には、両御所様のご憐憫浅からず、忘れるなって事も書いてますから、徳川方も広家の功績は認めそれなりに便宜を図っていたものと思います。広家が岩国に行ったのは、ほかならぬ家康の意向があっての事です)。要するに、みな合戦の経緯を把握していてその記憶を持っている時期に、少し聞き取り調査すればわかってしまうようなことを、自家にだけ残したこの案文でいくら捏造しようが戦後処理に対しては無力で、「責任を恵瓊のみに負わせるため」という目的は後世に向けてしか機能できないように思うのです(まあそれが問題ですよね、笑)。

それでいて結局のところ毛利では恵瓊だけが処刑されたという事実をみましても、徳川方からすれば、仮に恵瓊が先陣を務めて動かなかったにしても考慮もされず、重大な責任があると見做されていた事は間違いなく、広家は色々と自分に都合のいい事言ってあるんだろうとは思いますが、そんなにまでひっくり返されるされるほど荒唐無稽な内容なのかなーというのが率直な感想です。佐野道可事件の事もあり、まるで吉川のいう事は全く信用できないと思わせる印象になっていますし(家格問題のあれこれとか陰徳太平記とかあって実際にそういう節はあるかもだし、今は関ヶ原合戦関連で無条件に信じられてきた俗説を見直し、実像に近づけていこうというフェーズなのだと理解してはおりますが……)。


最後に、無知なくせに好き勝手言ってしまいましたが、こういった形で広家の本が出るという事自体がありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。もっともっとー!


今後、きっとさらに研究や再検討も進んでいって、私の中の広家ドリームは(史実としては)破壊されてゆくのかもしれないけど、独立心強くて御し難い所とか、目的に猪突猛進で回り見えなくなる感じとか、身体ょゎぃぽいけど戦はっょぃぽい所とか、それでいて看病頑張っちゃうところとか、やっぱ可愛いと思います。そして、関ヶ原のアレは、時代が変わって家中でどんな立場になろうとも、祖父元就の遺言を忘れることなく、また父元春、特に一人毛利を支え続けた叔父隆景に倣い、毛利家のためを思っての行動だったのだと信じています。

11/24誤字修正加筆
  1. 2016/11/23(水) 23:55:38|
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旗馬印絵図?

『旗馬印絵図』?

↑いろんな武将の馬印や旗指物が載っています。検索してたら見つけたページなんだけど、なんなんだろ? 

表紙の漢字はいきなり読めませんでしたが、「Hataumajirushi ezu」とタイトルがあったので辛うじて理解できました。国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで見られる寛永年間出版の『御馬印』シリーズ(国立国会図書館デジタルコレクション様)と比べると、信長や信忠、秀吉や秀次などメンバーが被っている部分では、大体同じものが描かれていますが、びみょ~に違ったりしてます。

『御馬印』6巻には、『旗馬印絵図』と同じメンバーが沢山出てくるので見比べてみた所、『旗馬印絵図』の佐々内蔵助の馬印には”三階菅笠”が描かれていますが、『御馬印』6巻の方では”三階菅笠”は蒲生飛騨守の所に描かれています。なぜ~?って思いましたが、蒲生氏郷が佐々成政の馬印を欲しがって頑張った逸話(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ様)がありましたね……。あと、筒井順慶の部分は、『御馬印』6巻の佐々の絵と同じものな気がしますが、さて。

ページをめくっていくと「関原陣(?)」と書かれた所から、『筑前中納言(小早川秀秋)』、『備前中納言(宇喜多秀家)』、『石田治部少輔』、『島津兵庫(島津義弘)』、『小西摂津守(小西行長)』、『大谷刑部』、『平塚因幡(平塚為広)』、『安国寺』の順に旗指物や馬印が出てきます。書かれてるメンツ的にも、やはり関ヶ原合戦の頃のものって感じですよね。恵瓊の馬印かっけーです。いかした坊主ですね。しかし、三成の旗指物といえば「大一大万大吉」のイメージが強いですが、こちらに描かれているものは真っ白です。その他の武将のものも、商品化されたりして現在よく見かける図案とはちょっと違う気がしませんか。うーむむ。色々わからなくなってきました。


さらにめくると「関ヶ原陣」と描かれたページが見つかると思います。でもすぐ隣のページに「大阪陣」って書いてるし、よくわかりません。そのページには「長宗我部宮内少輔」「長束大蔵」の旗が書かれていて、その後のページにいよいよ「吉川」が出てきます。

吉川氏旗指物馬印
(参考画像。吉川 大馬印 馬印 馬印 自分之さし物) なんで吉川だけ名字オンリーなんだい……!?

吉川氏の家紋といえば、輪九曜あるいは三引が有名かと思いますが、「吉川」の旗指物に描かれた下り藤の三引両紋も、吉川家のものですよね。吉川コーナーの馬印では、婆々羅の馬印に似た惜しいやつがあるっていうか、パワーダウンして熊手っぽくなったものが載ってます。これはさすがにちょっと物足りないというか、折角の馬印なのに目立たないのではというか、なんか変な事ないですか……? あと、「摩利支尊天」ですって! 元就所有とされる軍旗にもその名が書かれていたし、元就公も信仰していたとネットで見かけました。お爺ちゃんの影響もあるんでしょうか。お爺ちゃん大好きっ子でしょうか。『自分之さし物』の、瓢箪のようなしゃもじのような物は一体なんでしょうかね。これ自分が指したんですかね? 黒いもふもふも目に付きますが、吉川広家の三巴鎧にも黒モフついてたし、私ももふもふ大好きです、気が合いますね!

けれどここに描かれた吉川の旗と馬印は、どれも見た事がありませんでした。といっても、婆々羅の馬印くらいしか調べた事なかったんで、元よりよく知らないんですけどね。

吉川コーナーが終わると、「島原寄手旗馬印」コーナーになります。つまり島原の乱の事ですよね。これはのちの時代にまとめて描いたものなのでしょうか。この絵図はいつ頃書かれたものなのか、そしてどれくらい正確なのか、割と気になっています。


*読めない文字はMOJIZOで調べました。正確じゃない部分もあるかと思いますが、ご容赦を。間違いや気づいた点等あればご指摘いただけるとありがたいです。
  1. 2016/10/05(水) 20:06:14|
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吉川広家と関ヶ原の戦い

広家は関ヶ原において一体何を考え、何をしていたのでしょう。吉川史料館の「吉川氏の関ヶ原展」展示品をもとに、私の勝手な憶測・感想なんかも交えて書いてみたいと思います。


注:ものすごく広家贔屓目線です。


吉川家文書917(広家の言い分覚書案、慶長6年)によると、福原広俊・堅田元慶も恵瓊の主戦論に反対していたようで、他にも、益田元祥が広家・熊谷元直・宍戸元続と相談し、7月の毛利輝元大阪城入りを阻止しようと動くも間に合わなかった旨も書かれていました。このため広家は黒田長政を通じ「輝元は企てに無関係」という密書を送り、徳川家康から了解した旨の返事(8月8日付)をもらっています(吉川146)。しかし安濃津城攻めが決まり、東軍との関係を疑われまいとした広家はこれに参加、勝利するも多数の死者が出、長引けば毛利はどうなるのかと思い輝元へ状況を報告し、御諚を待ったそうです。

他、今回展示されていたものを時系列にまとめると、広家と交渉を続けていた長政は安濃津城攻めにおける広家のハッスルぶりに焦ったようで8月25日付の手紙で返事を催促しています(吉川148)。9月3日には長政の父黒田如水からも手紙が来て家康情報がもたらされます(吉川155)。9月12日、広家は国元の家臣に、敵より味方の方が多いが兵が一丸となってない事など伝えています(吉川家文書別集632)。

917号に話を戻すと、広家は、家康と敵対することに一貫して反対だった立場を主張しています。端折りつつ抜き出すと「……輝元と家康は兄弟の契りを交わしており謀反する理由がない。奉行衆に属す宇喜多秀家と小早川秀秋はまだ若く九州勢は遠方すぎる。朝鮮の役以来奉行衆は軍略がないと批判されてる。家康は今や八ヶ国を領し、有力大名はみな東国に属している。毛利元就も天下を望むなと戒めていた。勝ったとしても実権は奉行衆に握られるが、家康に属せば心遣してくれるだろう。……合戦当日、遅れていったら石田三成敗北の知らせを聞いた。西軍優勢だったとしても起請文があるから攻められない。関ヶ原まで二里あり、池田輝政ら1万の兵がいた。当日は霧で見通しが悪かった。高松城攻めた羽柴秀吉と和平貫いて感謝&安堵された事を小早川隆景が折々自慢してたけどこれと同じ事と思ってる。長束正家と恵瓊は主戦論を言っていたが当日は進軍してない。……」などなど、西軍に着く事がいかに無益で困難だったか理路整然と、というか必死に訴えています。

私自身、広家に関しても戦国時代に関しても詳しいとは言えないため、まだまだわからない所は多いのですが、8月あたりから開戦までにかけての動きには、関ヶ原前哨戦に位置づけられる戦などを経て周囲の状況を見極めようとしていた部分もあるのかなと思ったりもします。

広家はこの覚書案の中で「9月13日家康が赤坂に着いた時、治少と大刑少が大垣南宮を捨てて山中に引いたけどこれは前日の軍議決定と違う」って事も書いていますけど、本当は関ヶ原の戦い前日の14日到着らしいです。ここらの記述に疑義があるみたいですね。ただの記憶違い・書き間違いか、はたまた……?

14日といえば、折しも秀秋が松尾山を占拠した日なので、西軍主力はそれに対処すべく大垣から引き返したのではという話をネットで見かけました。この記事とか(中部発:読売新聞様)。松尾山城は西軍の重要な拠点で、西軍の背後を容易に突ける位置にあり、これを放置すれば後方と遮断され逆に西軍が孤立するというので、絶対に無視できません。一気に引き返した事にも納得いきます。

しかし、一枚岩でなかった上にこのような事態が起こったとすれば、意思疎通もスムーズにゆかなかったかもしれません。西軍側からすれば「南宮山勢やる気あるの?」という疑念があっただろうけれど、上の記事にもある通り、挟撃の機会を無視し味方を残さず主力が皆退いたとあらば、このままだと真っ先に家康など東軍とかち合うのは自分たちのみであり、「見捨てられた?」と不審感を抱いた事は十分に考えられると思います。そして勿論ここでも、秀秋の動きで西軍が危うくなった事は予測できたはずです。

広家は、元より西軍は勝てないと踏み東軍に通じていたとはいえ、この時点でもまだ西軍に転じるルートは残っていたわけですが、西軍の突然の計画変更でこれまでの算段が狂い、にわかに戦況が悪くなった事を感じさせる土壇場でのこういった出来事は、最後の決断への後押しとなった事も考えられる気がします。いずれにせよ、このような状況がわかっていながら、東軍を切って乾坤一擲のギャンブルに出る理由はないでしょう。

そして同14日、広家と広俊は井伊直政・本多忠勝と起請文を交わし(吉川149)、翌15日の合戦では動かず、秀秋は西軍に攻めかかりました。結果、ご存知の通り1日持たず早々に東軍の勝利が決定します。

今は、秀秋は様子見をせず、開戦と同時に裏切り三成方は瞬時に敗北したという説があるんだそうです(関ヶ原合戦の真実、白峰旬氏。未読ですが……)。そうであるか、それに近い事が起こっていたならば、仮に、霧が晴れるのを待って毛利が山を下り攻撃したとしても、家康を背後から脅かそうと池田隊らを相手しているうちに主戦場で勝負がついてしまう可能性が、尚の事高まると思います。そうなった日には、減封だけでは済まなかったのではないでしょうか。ともかく出来過ぎのようなこの結果には、関ヶ原の戦いの趨勢に奇妙な巡り合わせを感じてしまうというかなんというか、特に秀秋の働きは未来でも見えてた?ってくらいすごすぎる気が……。


霧の山
岩国城から山の方を撮った写真。お天気が悪く、霧が出てました。幻想的ー。


当時の武将たちはやはり戦が長引くと考えていたようで、「中国を攻めて華々しく一戦しようと思ってたのに内府が早く戦終えて残念」という、有名な如水のお手紙も展示されてました。私としては、軽口というかジョークを含んだ発言のように思えますが、もっと長引けばというのは本音かもしれません。仲の良さが伺える気がします。余談ですが、9/3の如水書状では「内府が上方に進軍するから気を付けて、かち合わないよう分別肝要よ、上方の面々は家康と悉く内通してるよ」ってな感じで気遣いつつもしっかり広家を口説いてて、東軍のためばっちり働きかけています。

今回の企画では、関ヶ原から14年経って大坂冬の陣の頃、三成への思いを綴った広家の覚書(吉川918)も展示されていました。これによると広家は三成に冷遇されたと感じていたらしく、具体例を列挙して愚痴ってます、笑。 一瞬なにそれ~(でもちょっと可愛い)って思ってしまいましたが、まじめな話、辛い思いをした側はその事をなかなか忘れられないものですよね。私が同じ立場ならば、あまりの軽んじられっぷりに心折れてるし、積極的に味方しようと思えなくても当然と感じてしまう所です。とはいえ、ちょっとしたすれ違いからどんどん悪く捉えてしまうってのもままある事ですし、意図的な仕打ちだったのかはわかりません。けれど、結局関係修復もなされぬまま、おそらく嫌いだったのでしょう。そう考えると先の言い分にも悪し様に言った所とかあるのかも?って気もしたりしなかったり、こういうお手紙にも色んな事情が垣間見えるようで大変興味深いです。


いずれにせよこれは、重臣らとともに毛利の行く末を案じたがゆえ、最善を考えたゆえの行動だったはずなのに、結果は防長二ヶ国に減封だったため、批判の矢面にたつ事となって苦悩し続けたのでしょう。ううっ私も悲しい。大丈夫、わかるって伝えたい! 総大将まで務めてお家が存続し大名で居続けられたというのは、結構すごい事だと思います。どちらもその後の気苦労はすごかったでしょうけれど……。


広家が戦っていれば秀秋も裏切らず西軍が勝っていたのでは?という疑問は、実を言えば私自身もずーっと思っていた事で、そうであった可能性は勿論否定できないし、もし攻めかかっていれば今頃はと、冷ややかな目線を送っていた関係者の気持ちも理解できる所だったりします。例えスケープゴートだとしても。評価の分かれる広家ですが、いまは私は、宗家のために英断だったと思っているし、好きな武将の一人です。


みみずくの手水鉢
上田宗箇が広家に送ったみみずくの手水鉢。吉川家墓所にあります。お目目まん丸で大変愛らしいです。猫っぽい!


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   本編、岩国の旅はこちらー
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9月21日、追記&リンク追加
  1. 2016/09/19(月) 22:55:24|
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岩国、吉川氏の関ヶ原展、広家、イエー!

吉川史料館の吉川氏の関ヶ原展行ってきました。リアルっぽい事はあまり書かないつもりでしたが(何しろ書く事ない)、岩国は別!ぜひ書きたい、書かせてもらいます。

「吉川氏の関ヶ原展行きたいなぁー。でもちょっと遠いしお金ないし無理だなー」とずっと渋ってたんですが、「もうすぐ吉川氏の関ヶ原展終わってまう……」と思ったら居てもたってもいられず、行ってしまいました。吉川氏の関ヶ原展については2日目に詳しく書いてます!


●1日目●
錦帯橋
錦帯橋を渡り

吉川家墓所
まずは吉川家墓所へ。吉香公園の奥まった場所にあり、緑に囲まれた清閑ないい所でした。

吉川家墓所内
中は迷路のようになっていて

吉川広家様のお墓は山っぽいところにひっそりと
吉川家墓所、広家様
この上にあります。山がちなおかげで蚊に刺されまくりました。かゆ、つら。ゆっくりしたかったけど早々に退散。戻ってから数えたら合わせて30か所食われていました。痒いわけです。でも「岩国の蚊、吉川の蚊、広家の蚊!」って思ったら全然許せるっていうかむしろ「食って」くらいの気持ちになります(適当)。

1日目の目標は吉川史料館だったのですが、錦帯橋→ロープウェイ→岩国城セットのチケットを買ってしまったため、まずはそっちを消化せざるを得ないという気持ちに。ロープウェイで城に向かうも、城に着くころにはザアザアと雨が降ってきてしまいました。傘、ホテルに忘れてきた……。
岩国城
岩国城。このお城が建てられたのは関ヶ原後なのに、周囲をぐるっと川に囲まれた山城だったり、大きな空堀があったり、非常時脱出口になるとも伝えられる大井戸があったりと実戦を意識したようなスタイルであるところを見ると、尚も有事に備えていたのでしょうか。

『世紀を越えて繋ぐ情熱 岩国藩の歴史そして錦帯橋』のDVDでは、「再び世が乱れる事があれば、吉川家は毛利の先頭となって戦い毛利120万石を回復したいと考えていたからで、山城は毛利家への忠誠心の現れ」と言っていました。ああ、泣ける……。

一方で、広家が岩国入りした事には、福島正則と共に忠勤に励むようにとの家康の意向があったようで、『岩国藩財政史の研究』でもこの事に触れられており、「毛利に対する抑えとしようとしたのであろう」とか書かれていました。うわあ~、そうなの? なんて複雑な立場。でもこの後ろ盾(?)があったから残れたとかそういうのもあったりするのかな……。

様々な思いを含んでいたこのお城は、一国一城令によって、結局わずか7年で破却されてしまいます。切ないな。

城内見物之後、城跡の石垣観察。
岩国城跡旧天守台石垣

岩国城跡旧天守台案内
岩国城跡旧天守台。本当ならここにお城があったんですね。今の天守閣より少し離れた場所にあります。もっと奥まで見たかったけど雨が降り止まず下山を決意。

帰りは二の丸付近でしばし立往生し、雨が弱まった隙をついて岩国美術館へ。この時点で足の腫れと痛みが気になって歩みが遅々として進まず、一応全部見て回ったものの展示物が全く頭に入ってこない……。とはいえ豪華で見ごたえあったので図録?的な本欲しいかなと思ったけど値段に戸惑い、保留。明日史料館みて買うもの買ってからまた来よう!

夜は晴れたのでう飼いを見に行きました。2時間前に申し込んだためお弁当を用意してもらうのは無理で、う飼い見物だけになってしまいました。
岩国う飼い
屋形船に乗り込み、うちわで夜風を扇いで涼をとりつつ、錦川の黒い水面に映える提灯やかがり火に、ライトアップされた錦帯橋とお城を眺めれば「ここは岩国なんだな」と感慨深く、存分に堪能できました。「なにこれ優雅すぎじゃ?そういえば私殿様だったっけ」

岩国う飼い2
しばらくするとガアガア言いながら鵜がやってきます。拍手すると鵜が喜ぶらしいので(本当?)必死に拍手してました。鵜、くるしゅうないー。まあちょっと苦しそうだけど、可愛い奴です。なんでも序列に煩いらしく、長幼の序を弁えず若い鵜が先に並ぶと年長の鵜が怒るんだそうです。面白い。


●2日目●
朝、ホテルの露天風呂にチャレンジ。山を見ながらのお風呂、良かったです。また殿さま気分。

岩国佐々木小次郎像
岩国との関係は知りませんでしたが、佐々木小次郎像です。なかなかイケメンでポーズもカッコイイです。後ろから撮ってみました。

そしていよいよ念願の吉川資料館へ。ねばるぞー!
吉川史料館

吉川家年表
入口にあった吉川家の年表。広家の所だけ大抜粋。

中では早速広家自筆書状を拝見しました。

あー。この前に広家公が座って、筆をさらさらと、こう、こう、こんな感じで動かしたんだよね。400年の時を超え今はただ私の目前にあり、こうしてその存在を証明してくださる。感激せずにおられましょうや。

そもそも広家の字って、なんか可愛いくないですか? 小さめで丁寧な文字は猫のようにしなやかだったり丸っこくて、これ絶対可愛いよー。古文書見ると、流麗とか力強いとか癖強いとか色々思いますが、可愛いとか思う事はあまりない気がします。贔屓目? くずし字読めないし書道も出来ないのに何言ってんだろって感じですが。

関ヶ原後の輝元様の書状(お酒と大根ありがと、秘蔵して大切にするーっていう萌えるやつ)もありましたが、やはり毛利家当主を感じさせる鷹揚かつ大胆な筆跡で私には難易度高すぎて、少しも判別できませんでした……。

黒田如水・長政父子が広家に情報を流したり(調略)、配慮しているお手紙がありました。官兵衛のお手紙を読むと、広家は官兵衛を気遣っていた事が伺え、きっと懐いてたんだろうなーって感じがしました。官兵衛も官兵衛で、「日本がどう変わろうと私たちの間は変わりません」とか言っちゃってるし、官兵衛にこんなん言われたら嬉しくなっちゃいますね。才知に優れているだけでなく、人当たりも良かったのでしょうね~。なんとなく、官兵衛なら手玉に取るのも容易かもって思ってしまう所もありますけど、笑

撮影禁止のため、このお宝自筆書状の数々は心に焼き付ける他ないのが残念でなりませんが(史料館の本に少数ながらも自筆写真載ってます)、とりあえずめちゃくちゃメモってたら、史料館の方に声をかけられました。
「メモしてるからもしかしたらと思って……、展示品の書き下し(解説文と現代語訳が載ってました)ありますよ、100円になってしまいますが」
な、なにそれ!そういうシステムなんだ。史料館とか初めてなので全然知らなかったです!買う買う絶対買う!!ああ、なんて親切なのでしょう。なんかメモってた自分が恥ずかしくなって「ヤダー」とか言ってしまいましたが、心からありがたく嬉しく、感謝してもしきれません。吉川史料館素晴らしい、大好き!神対応すぎて旅の間中テンション上がりっぱなし、もうこれだけで旅の元取れたと思いました。

あとこうもおっしゃってました。
「メモを取ってる方よくいらっしゃるんですが、言ってくれればあるのにーって」
メモ取ってる人よくいるんだ~。私が居た時は一人もおられませんでしたが、そんな方とお友達になりたいです。あでも私、表層的な興味が強くてニワカ抜けきらない人で、メモってたのも単なるミーハー心からであり物覚えすこぶる悪くてすぐ忘れるし、そんな真摯な方とはやっぱ話あわないのかな、気が引けるよな……(コミュ障ネガティブ)。

吉川氏の関ヶ原展解説文
こんな感じで、展示品の解説とか現代語訳が全部載ってました。なんたる神!というわけで、こういったものを史料館で用意されているようなので、ほしい方は尋ねてみてはいかがでしょうか。ひょっとして常識だったり?

さて関ヶ原関連についてですが、あまりに長くなりすぎていたので、別ページに移しました(;´・ω・)。展示品の中から書状、主に吉川家文書917号(関ヶ原合戦について広家の言い分)を中心に、私見というか贔屓目線で色々書いてます。


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   吉川広家と関ヶ原の戦いはこちら
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書状以外で気になったのは、婆々羅馬印鏡・柄です。慶長の役の際、加藤清正が籠った蔚山城は厳しい戦いを強いられますが、日本軍が救援に駆け付け勝利を得ます。その際清正は、真っ先に明軍へと突っ込んで活路を開く活躍した三引両馬印の将が誰なのか気になりました。その将こそは、吉川広家公その人なのでした! 清正は広家に感謝を伝えるとともに、「でもその馬印、なんかこう、見えづらくない?」って事で、自身の馬印を進上したいと申し出ました。広家もこれを所望し、かくして婆々羅の馬印を使用する事となったそうです。この逸話大好き。馬簾部分をいれたら全部で4mになるんだそうですよ。

元となった加藤清正の馬印は、たぶんこれ(国立国会図書館デジタルコレクション様)かな? ちょっと汚れつつ「むましるし」と書いてある所の扇形の絵です。たしかに形同じだー! 清正の馬簾は9本ですが、廣家のは13本まで増えて色も赤へと変更され、さらに派手になっています。こちらには広家馬印の写真が載ってます(大朝郷土資料室/ひろしま観光ナビ様)。レプリカかな? すごく広家っぽさ感じる!

朝鮮の役で使用したと伝えられる三巴具足にも目を奪われました。胴の大きな三巴の上に、九曜紋に似た小さな装飾が5つついているのですが、外の丸が12個もついていて(十三曜?)虹色にキラキラと輝き、これがまたお花っぽくて可愛いんです。 細部まで手が込んでいて品があり、こんなの着て戦場に行くなんて勿体ないとか思ってしまいました、笑。 これが私だったら、この美しい鎧にちょっとでも傷がついたらやる気失って引きこもるレベルですのに、どれほどゴージャスなんでしょう。戦国武将ってめちゃくちゃ美意識高いですね。

最後に広家肖像画もまじまじと眺めました。いやあっかっこいい! Wikipediaでも見られますけど、あちらは模写です。本物の方がより優しい表情で素敵です。お父上の元春様の肖像画から比べてもなんか面長で、きっと特徴をよく捉えた肖像画なのでしょうね。そんな所でも個性を感じさせる広家たまらんです。なんとも幸せなひと時を過ごせました。


もうこの時点で旅の目的は達したのですが、メモ取らなくてよくなった分時間ができたので徴古館にも行ってみました。
徴古館
しかしながら下調べもしておらず展示品についてもよく知らなかったため割とすぐ退散。建物がレトロで美しかったです。なんと無料です。旧デザインの絵ハガキまで無料で置いてあったので1枚頂いてきました。岩国の歴史に興味がある方は訪れる価値があると思います。

目加田家
目加田家。いっぱいブレブレ写真撮った。

シロヘビ館へも足を延ばしてみました。意外にもめちゃ可愛かったです。あと、私存じ上げなかったのですが、漆原友紀先生の原画が飾られていました。なんとラッキーな巡り合わせなのでしょう。自分自身が絵を描くようになった事もあり、白蛇よりも興味深く観察してしまいました。すまんシロヘビ。展示されていた絵は淡めの塗りでしたが、パワーを纏っているかのようですっかり魅了されました。生の絵って素晴らしいな……。先生へのメッセージ帳も用意されており、ファンの方々が描き残した素敵なイラストも堪能させてもらいました。やっぱ紙に描けるっていいな、デジタルオンリー寂し。ていうかデジタルオンリーにしても、私ほど紙に描けない人もまずいないだろうけど!

その後時間が余ったので、死ぬまでに一度は行ってみたいと思っていた宮島へ。
宮島の鹿
鹿かわゆ。

干潮が18時台だったので時間的にもちょうどよく、足が棒になりながら大鳥居まで行ってみました。
厳島神社大鳥居
大きいー。荘厳ー。すごーい。やばーい。語彙たりなーい。ここで毛利さんと陶さん戦ったんだよね?と"厳島の戦い"と"三子教訓状(元就公が厳島への熱い思いを語ってるあたり)"ウィキペで確認して、浸っときました。

厳島神社
でも18時だと神社しまってんのね……。なんとなく消化不良のまま岩国へ戻りました。


●3日目●
いよいよ帰宅の日。帰る前にまた広家様のお墓へご挨拶。
岩国の山道
正面からだと遠いので今度は裏から。

吉川広家初代藩主
今日はコンビニで買った虫よけスプレーも用意したし対策バッチリです(錦帯橋付近ですと、コンビニはなかなか遠い気がします)。しかしながら岩国の蚊、強し。虫よけスプレーを全く気にしない強者にまた何カ所も刺されてしまいました。ああ幸せ(錯乱)。

広家様墓所内
広家様墓所エリア。みみずくの手水鉢がちらっと見えます。再びここにこれたらいいな。というかもうずっと岩国に居たいー。

という思いを断ち切って新幹線で広島へ。3日目ともなると引きこもりの足はまるで象の脚かのようにパンパンにむくみきり、ただの歩行にさえ著しく支障が生じたため、やむなくそこらのビルにあったマッサージ店へGO。マッサージとか人生初ですよ……運動不足だしもう完全に年だわ。足つぼマッサージをしてもらうも、痛すぎて息を切らしながらギャーギャー叫びまくってしまいました。情けないのう。むくみはあまり治らなかったけど、終わった瞬間足が軽くなり、足裏の痛みがすっかり取れました!

いざ広島城。
広島城門
輝元と正則ゴイスー。折角フォトショなんで、背景から目立つビルとか消してみました。

広島城は二の丸が楽しかったです、写真撮りまくれたので。
二の丸の中

二の丸の中2
二の丸内部

二の丸の中吉田郡山城
吉田郡山城模型

そして天守。
広島城天守
中で可愛い女の子の二人組が椅子に腰かけ、うんうんと頷きながら熱心に毛利家動画を見ていたので、幽霊のように背後から便乗して見ていると、二人が私に気が付いて席を空けて譲ってくれました。なんたる天使!ていうかお友達二人で城めぐりとか羨ましー、いいなー、いいなー。でも私が誰かと一緒に旅行ったら「足痛い」「疲れた」とか言ってたびたび進めなくなって迷惑かけるだろうからそんなの望むべくもないわ……。もう足が辛すぎたため、気もそぞろのまま天守まで。旅の全工程終了だー。


戦利品?
3日間の戦利品?

あとゼリーとかもみじ饅頭とか、自分用にお酒とか。ぱらっとめくってフィーリングと値段の安さを考慮して買ったのですが、思った以上に少なかった!あー弁当食ってる場合じゃなかった。ケチケチして、色々と購入を諦めてしまった事を今になって悔やんでしまいます。あっ、美術館の図録買いに戻るのも忘れてた!


岩国と広島ほんと楽しかったです。疲労困憊であまり空腹感じなかったのですが、料理もおいしかったです。岩国寿司と大平、レンコン天ぷら、お好み焼きにカキなど頂きました。旅行中の食事で茶碗蒸しが2回出てきたんだけど、どちらもぎんなん入ってなくて嬉しかったです!思い切って行って本当によかった、充実した旅ができました。


でも、岩国戦利品、まだちゃんと見たわけじゃないんですが、吉川家の御膝元なだけあって広家様の苦労や頑張りが丁寧に描かれているんですよね。それを見ちゃうと、妄想によるふざけた絵とかくだらない漫画描くの、ものっすごい気が引けますね。ううっ、ごめんなさいホントに……。でも描く……。好きだから……。


9月19日  関ヶ原合戦についてのページ分けました。
  1. 2016/09/10(土) 17:33:49|
  2. 吉川関ヶ原展
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