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なのかのお絵かき練習帳

戦国時代ぽい絵を練習中です。毛利、吉川がすき。時々BL要素あり注意。

2年ぶりに行ってきました平成最後の岩国へ!

一日目岩国 二日目北広島 三日目愛媛

今回の旅は岩国・北広島町2泊3日の予定だったのですが、愛媛で黒田長政が描いた絵が展示されていると知り、ここに急遽愛媛もねじ込むという、正直老体には厳しすぎる旅程となってしまいました笑。無茶な旅は若いうちにしとくに限るなあ。という訳でこの度のテーマは「勿論広家+ちょっと長政」です。

以下、異様に長いんですが、この興奮を忘れないよう書きました。お時間がある時にでもお付き合いくだされば幸いです!

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岩国のランドマーク錦帯橋&岩国城。この橋を見たら岩国到着に感動する事間違いなしと思っていたのに、ザーザー降りのお天気のせいか二度目なせいか特にこれといった感想もなく笑。前回も雨だったけど今回もお天気悪そうだなー…。

まずは岩国名物アイスクリーム屋さん!
冷たい食品にさほど心動かないタイプなので前回はスルーしました。でも『岩国行ったらみんな食べてるのに私と来たら』とイマイチ乗り切れてなかった事が気になっていたので、今回ははしゃいでなんぼと食べてみました。クレオパトラのバニラ味は、スズメや鳩も欲しがって寄ってくる程甘く濃厚な味わいでした(観光客がめっちゃあげてた笑)。
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薄い動機だったので写真は全部撮り忘れてます…。

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少しだけ菖蒲が残っていました。向こうの建物は吉川史料館です。

さて目標の一つ、吉川史料館へ到着!
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今回は「元春とその息子たち展」という事で、元春をはじめ元長・広家関連の展示多めでした。
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入ってすぐに系図が展示されていたんですが、広家の所、途中で折り返しになってて全部見れないという…、ちょっと残念! 広家とできれば広正も見れたら良かった~(テーマの趣旨分かってんのか)。これミニチュア化して販売してほしいなあ。年譜ではあんまり戦の事書いてないけど、やっぱり広家のデビュー戦って公式的にも10歳とかなんですね。肝の据わったちびヒイちゃん可愛いよー。小っちゃい鎧とか用意してもらって着たんでしょうか!

一番興奮したのは広家年譜(吉川家文書982)でした。自筆なのかいつ書かれたのか色々と気になっていたんですが、まあ当然のように自筆っぽかったし、なんとなくですが当時に書かれたものなのかなって気がしました。色々苦労したけど現在(天正16年)まで至ったぜという充足感が出ており、受けた栄誉や交友関係を少し得意気にアピっているのが微笑ましいです。こちらも紙が長かったようで、最後の方は巻物状態になっていて見られませんでした。展示室狭いから仕方ないですね。

兄元長死去後、広家が恵雍に充てたお手紙もありました(吉川家文書別集199?)。元長さんとは子供の頃からの付き合いがあり大変仲良かった恵雍さんですが、私は広家との関わり未だよく分ってません。けど恐らく兄繫がりで親しくしていたのでしょう。不安気な心情を吐露しており、元棟や家臣たちと力を合わせて頑張る覚悟と結んでいます。筆跡も少々乱れていたような…。ここにも兄の突然の死にかなり動揺していた事が見て取れる気がします。恵雍像パネルもあって『こんなお人だったんだ~どこかで見た事がある』と親しみを感じたし、やはり肖像画があるって良いですね。

加えて今回は元就・元春・元長・広家の三世代の和歌が展示されていました。Twitterでは「広家は兄より仏教の素養は劣れど国学の素養は勝っていたようだ」と書かれてた話をご紹介した事がありますが、こういう創作結構好きだったんでしょうね。広家の和歌はこのコーナーだけでも5つありました。その中にはなぜか漢字仮名バージョン違いの歌も…! 
「玉椿陰にや千代をまつかえと 花櫻木の庭のしつけさ」(吉川1426)
「玉椿陰にや千代を松かえと 花さくら木の庭閑けさ」(吉川1427)
ん~分かる~。漢字と仮名で印象が変わってくるからそういう所迷う~。やっぱ広家はポエミー!

あと元長書状の生「一笑〱」見られたのも感激しました(吉川別集82)。所々小さい文字でぎゅぎゅっと書いてあったり、見た目にちょっと賑やかでフリーダムな印象でした! 元長の教養を感じさせるこのお手紙は、親密な恵雍さんに送られただけあってユーモアが感じられ、そして勢いがあって率直で愛らしくて…、そのお人柄が偲ばれます。

それから、元春が経言(広家)に宛た書状もよかったです(吉川1230)。経言の素行がずっと気になっていたのでしょうが、心を砕いて丁寧に説得にあたり、理由があるなら申せと真正面から息子に向き合っていて、その真摯な姿勢と親心に触れ、やっぱ元春って父としても将としても全方位に理想的イケメンだなあ…って思いを新たにしました。最後の方に、元棟も行儀悪くて再三注意したら治ったって書いてあるんですが、この弟二人、案外と似てる所があって敢えて書いたんじゃないかという気がします笑。

書状以外の展示では、鐙が気になりました。細密に下り藤の三引両紋が彫られていて、くぼみには土っぽいのが付着してるんです。実際に使ったのかな…? この上に元春の足が…? お尻が…!? って感じで胸が高鳴りました。

あと前の時も鯰形兜展示されてたんですが、今回よく見たら眉庇の上の辺りに鯰の顔が書いてあって、ゆるキャラみたいな愛らしい兜だった事に気づきました。関ヶ原合戦前日に家臣の三浦伝右衛門(伝右ヱ門)に被らせ密書を届けさせたという由緒があるそうで、これは名代の証として被らせたという事でしょうから、きっと広家自身も被ってたと思うんですよね。ゆる可愛い…。尾が微妙~~に右側に傾いている所とか注目したくなる可愛さです。拘りなのでしょうか。

最後は、元春が老いた際には頼りにしようとしていたという夭折した4男松寿丸肖像。初めて見ましたが、聡明そうで大変美しい子でした。成長したお姿が見たかった…。

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2年ぶりの訪問という事で、前回来た時は展示品解説の小冊子は添付の資料って感じだったんですが、今回はテープで製本されていただけでなく、手に取りやすいようお土産コーナーに置かれていてすごく良かったです! しかも過去企画の解説もあるという充実ぶり…。なかなか来られない私としては五体投地で感謝したいです。

それと、「史料館たより」のバックナンバーが欲しかったんですが、前は「2~3時間居座った挙句こんなん申し出づらい…今更全部ほしいなんて言ったら手を煩わせてしまうのでは…」と尻込みして諦めた事ずっと後悔していたので、今回思い切って「全部ください」した所、封筒に入ったバックナンバーがぽんと出てきました。ああ無駄な2年を過ごしてしまった…。とにかく感激ー!! あとはグッズが充実したら最高かも! ミニチュア書状とかミニチュア系図など是非是非…(売れるのか?)。


さて、お次は前回訪問時には知らなかった場所や興味持ってなかった所メインで尋ねてみました。

まずはここ。
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大変見えづらくなっていますが「□(歴?)史町名 鞭棄小路」と書いてあります。

岩国観光してても気付き辛い広家スポット、鞭棄小路。
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伝えられるお話はこんな感じです。
関ヶ原合戦後毛利は防長二ヶ国に押し込められ、広家は血を吐くような悔しい思いをしました。それでも広家は自分を厳しく律し、再び天下が動く日のために武に励み、機を伺いながら臥薪嘗胆の日々を過ごしていました。ところが耳順に達したある日、遠乗りの帰りに「徳川はますます隆盛し、家光も英邁」との報せを受け「もはやこれまで」と悟り、手にしていた鞭を棄て、足取りも重く帰途に就いたのだそうです。その舞台となったのがこの道です。
胸を締め付けられるような切ないお話です。ちょっと感傷的で、ただの伝承とは思うのですが、いずれにせよ地元にこのような言い伝えが残ってるというのは、当地に暮らした後の人々も彼の行動に理解を示し、深い思い入れと誇りを以て寄り添ってきた事の証なのだと感じます。賛否ある広家ですが、こうした地元長年の愛に触れられるというのは、私にとっても大変嬉しい事です。


厩門の天井。下部に見える仕切りの奥に、備え付けの長椅子と囲炉裏(?)があります。
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ここで馬番が主人を待ったのでしょうね~。


それから御土居跡へ。
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ここはかつて政務を行う居館のあった場所で、今は神社や茶屋などあります。

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こちらは吉香神社です。岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社との事で、絶対お守り買うー!!と張り切って来たんですが、販売所閉まってました……。うう、そんな気はしていたけどやっぱりショックです。やむなく(?)無人販売のおみくじを購入するも末吉でした。でも概ねいい感じで、一部には大変良い兆しが書いてたし、これがまた大当たりでしたよ!

販売所開かないかなぁなんて思いながら暫く留まっていると、境内の猫に呼びかけられました。にゃぁにゃぁと何度も話しかけて来るのでついて行くことにします。
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見るからにゆったりした余裕ある歩きでしょ!可愛いなあ。

時々振り返り鳴きながら、すぐ傍の猫のミニ集会所に案内してくれました笑。
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もう諦めなさいと教えてくれたような気がして、後ろ髪引かれながらも神社を後にしました。きっとまたご縁があると信じて…。

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それにしても

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めっちゃ吉川なんですよ…! 

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この辺りでは至る所で吉川家紋が見られます。

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なんと落ちてる(?)瓦にも…。

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茶屋で甘味を頂きながら休憩していた所、私が脱いだ靴にムカデが寄ってきて客が騒然となる一幕もありました。ムカデは火ばさみで店外につまみ出されました。まさか外からくっついて来たとか? なんという、なんという…。

あと、広家関連ではないのですが岩国美術館も。ポスターとか垂れ幕とか沢山貼ってあるので今回の展示がなんだったのかよく分かってなかったですが「維新伝心展」やっていたようです。興味薄くてすみません…。秀就の甲冑がありました。昨日おろした新品みたいに綺麗で、やっぱり幅とか色々デカい気がします。鎧から見て秀就は大柄だったという記述を目にした事がありましたが、間違いなさそうです。あと「変わり兜」も展示してました。展示品横の解説が結構マニアック寄りなため流し読み状態なのですが、変わり兜コーナーではスマホでアプリをダウンロードすると音声解説をしてくれるという試みがなされていて楽しかったです。それと、出品目録の小冊子が無料で置いてあってこちらもサービスが進化しまくってました。前回買うか迷った図録、今回も値段見て諦めました笑。


錦帯橋を渡る前に、お墓へご挨拶に参ります。
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先に森脇さんのお墓へ参っていると、突如下方からお爺さんに話しかけられました。おお、ここで人に行きあうとは思わなかった…。前回は1時間くらい粘って誰も来なかったし、本日は雨なのに珍しい事もあるものです。曰く、マムシが出るから気をつけてとの事。な、なんですって!? 

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マムシを警戒しながら広家墓所へ。岩国に降り立った時は特に何も思わなかったのに、緑に囲まれ静かに佇む大きな墓石を目にした瞬間、「再び岩国に来られたんだ」と強く感じ、ここに至って感極まりました。まるで広家公に再会出来たかのような気持ちです。

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前回、叶う事ならまた此方に伺いたいと再訪をお約束しお参りしたので、この地に再び戻ってこられた事が本当に嬉しいです。というか私、呼ばれてたんじゃないかな広家さまに…(電波受信中)。

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それからも墓所でゆっくりしていたのですが、帰り際、先ほどのマムシ注意お爺さんがまだ居られ、階段の所に腰かけ景色を眺めていたので少し驚いてしまいました。私以上にゆったりと時を過ごしてたようです。お爺さんの方も私がこんなにしつこく居座っていたとは思ってなかったんでしょう、すれ違う時別れのご挨拶をした所驚かせてしまいました…。それにしてもこんな天気に広家墓所で粘る人間が二人も居合わせるとは、少し不思議な感じがします。もしかして広家卿だったんじゃない…?(電波MAX)

今回は携帯用ベープに虫よけスプレーと蚊対策ばっちりだったんですが、女傑の蚊にパンツの上から1カ所食われました。さすが広家の蚊、サプライズ精神溢れてるしガッツと忍耐がある!

最後に、新しく出来た元家臣の方のギャラリーにも行きたかったんですが、時間を勘違いしてゆっくりしすぎたため、開館時間内に間に合いませんでした(今後もこのように、行きたかったけど行けなかった場所1日1回は出てきます笑)。もし次回来ることがあれば是非訪れたいです。訪ねた方何があったか教えてください~。

そんなこんなで、不思議な導きや出会いがあったと感じる素敵な岩国旅となりました。


今回は広島で宿泊です。夜、原爆ドームへ足を運んでみました。
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そこにある73年前の光景に感情を揺さぶられ、ただひたすらに眺めていました。一瞬にして焼野原と化した広島の街と沢山の犠牲者の方々、そして残された人々の気持ちを思うと胸が痛みます。原爆投下は日本人として、また一歴史ファンとしても、あまりに無念すぎる出来事です。
ですが、今日広島と言えばカープの試合で盛り上がる活気ある姿が印象的です。こういったシーンは戦後広島の皆さんが一体となり力を合わせてきた事の象徴的ようにも感じられるのです。力強い復興を遂げた広島に乾杯だー!

広家旅はまだまだ続く!
次は念願の北広島です!!
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  1. 2018/06/26(火) 17:06:36|
  2. 元春とその息子たち展
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憧れの北広島町

一日目岩国 二日目北広島 三日目愛媛

二日目は北広島町へ。足がないと結構辛い場所ですが、当然足がないのでバスで行きます。
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備北バスたん。\嘘です/名前わからないけど可愛いので載せてみました。

本当はここで1~2泊したい位なのですが今回は最小限にとどめ、吉川氏城館跡のうち海応寺にある吉川元春館跡・松本屋敷跡・万徳院へ行きます。広島バスセンターから高速バスへ乗って約50分後、千代田インターへ(1310円也)。

北広島町に到着ー。途中にあったでっかい太鼓が何だったのか気になる…。
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北広島キャッチフレーズ?
観光案内所では待合スペースに、書籍やグッズ、神楽DVDなどのおみやげ販売もありました。こちらでは北広島町と三島食品のコラボゆかり®を頂きました。創業者の方が北広島町出身だそうで、現在もゆかりが続いているとの事。そもそも広島の企業って事知らなかった…。私ゆかりのファンになる~!

中には千代田町史が置いてあったのでざっと見た所、古代中世資料編は元春・元長の書状等に軽い解説付きでいいなあと思ったのですが、これから山に登るというのに重い本持って行く選択は有り得ないので諦めます。ただ帰りが5時を過ぎる予定なので、念のため元就と隆元の薄い本(ガイドブック)2冊と三引両家紋ハンカチを購入。さらに、念のため近くのコンビニでおにぎりや飲料を買います。ここからバスを乗り換え海応寺へと参ります。400円也。

到着してすぐに万徳院へ向かいます。約1㎞の山登りです。日山城跡なども行ければ…なんて思っていましたがそんなの絶対無理でした。よく考えてみれば、私は異様に疲れやすく平地でもご老人にぶち抜かれまくる程体力がないのです。道は舗装されているんですが、本当に久しぶりの山歩きです!
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…山のため靴を新調したせいで微妙に靴擦れしてきたし、足もむくんできてる。雨に疲れる、息も上がる、先が見えない、道は合っているのか…。もしこの道が万徳院に繋がっていなくても確認するまで絶対帰らないけど弱音吐かせて。『足痛ぇもう帰りたい』
車なら5分程度でしょうか(駐車場有)、徒歩でも15分の道のりらしいです。ほんと?皆早すぎる…。

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私はゆっくりと少しずつ歩いて2~3倍の時間をかけ、漸く万徳院に到着しました。戦国時代って山城とか多いから、体力がないと城攻め出来なくてきついですな…。そのうち南宮山にも行きたいと思ってたけど、この分では登るだけで日が暮れそうです。というか、年々体力落ちるんだから早めにいかないとヤバいな笑!

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カメムシ!そういうのもあるのか
元長の時代も当然、カメムシが顔にアタックして来たり、袖に潜んでいて困ったりした事でしょうね。

万徳院のガイダンスホールはとても綺麗で、清潔なトイレと復元模型があり最高でした。
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動画を鑑賞しながら散々足を休め、いよいよ万徳院跡地へ。また歩かなきゃーなどと思いながら進み始めます。

万徳院までの参道を行く。
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「え? なんで…?」
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なぜここだけ花が…?

今まで緑しかなかったのに、万徳院の敷地だけタンポポのような黄色い花(多分ブタナ)が咲き乱れていて思わず声が洩れます。
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気付けば夢中であたりを見回していました。これまでの疲れが一気に吹き飛んでしまったかのようです。

これは、いつか見た遠い昔の懐かしい光景…。
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一面に咲く花が、まるで「ようこそ。ここがあなたのゴールです」と歓迎してくれているようではありませんか。うう、頑張って良かった…。

登山に憧れてるのに体力ない自覚あるので見る専門登山ファンの身として言うけど、やっぱ登山って最高ですわ…。散歩レベルだろという事は置いといて、この日の花は私のために美しく咲き乱れていたんですよ…。
誰か種撒いたのかな。だとしたら想像も及ばない小粋すぎる演出ですが、でもブタナって芝生枯らすらしいからそんな筈もなく。自然と偶然が織りなす最高のご褒美でした。

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庭園。建物は蒸し風呂ですが、今日は開きません。

で、万徳院と言えば元長な訳ですが、ここのガイダンスホールの解説で初めて気づいた事があります。元長が建てた当初は本堂と庫裏だけの小規模な別邸的存在だったようですが、元長死去後も広家が建物を増築し、元長にふさわしい菩提寺として改修と整備を重ねたそうなのです。というか、ここに広家夫人容光院が眠っているんですよね…。思いもかけず広家の事績をも追っていた事に嬉しくなりました。

というわけで、容光院墓所。
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お会いしとうございました。

1591年、容光院は病を患っていました。同年3月13日付けで、広家には秀吉より富田居城の命がくだります。この日、広家は容光院の弟宇喜多秀家に病状を伝える手紙を出したようです。秀家からは、黒田長政の心遣いにより医師曲直瀬道三を派遣する旨の返事が18日付で来ています。広家は病の妻のため伝手を頼って八方手を尽くしていたのでしょう、その甲斐あって容光院の病状は一旦持ち直します。広家はこの事を早速秀家に伝えたようで、秀家からも喜びの返事が来ています。しかし残念なことに、容光院はそれから程なくして亡くなってしまうのです。4月19日の事でした。短いながらも二人で過ごした思い入れのあるこの地へ容光院を埋葬し、出雲へと旅立って行った広家の悲しみはいかばかりだったでしょう…。

他に旧容光院墓所というのもあって、一度場所を移されているようなのでそちらにも行ってみました。
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草が生い茂っており時々石が見えるくらいでよく分かりませんでした…。


下山。歴史館そばの御休み所吉川本陣は開いてませんでした。おにぎり買っといて良かったですが、一体何を売ってるのか気になりすぎます。吉川味のお蕎麦食べたかったよ~!
いよいよ歴史館へ。ここは写真撮り放題ですごく楽しかったです。なんと言っても元春・広家がお出迎えしてくれるんですよ~。ちゃんと広家もいるのが嬉しすぎる!
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あ゛ーーヒイちゃん何その顔めっぢゃかわいいい好きいい。しかも体験コーナーとかあります。

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写真撮ってもらったので載せてみます。立っているだけで疲れた感じがでまくってますが、滅茶苦茶疲れているので許してほしいです。陣羽織、広家仕様の赤をチョイスしてはしゃいじゃうおばさんです。

展示のパネルは面白いです。
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文献調査のまとめ(文書に書かれている館の様子)

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食事とトイレ。
まってwww 火ちゃんと通そ? ヒイちゃんなだけに! ていうかそんな生食と断言できるほどに寄生虫卵が…? と、今では信じられないような気持ちになってしまいますが、日本でも昭和20年代の保卵率は7~8割とかなり高く、国民病の一つとされていたそうです。ごくごく最近まで、彼等は大変身近な存在だったのですね。
それにしてもお尻拭きが棒とは、実に心許ない感じがします…。

出土品は引き出しの中に隠されています。いや、別に隠してるつもりないかもだけど、一つ一つ開けて見る形となりちょっと楽しいです。茶碗は勿論、見たかったハエ叩きとか呪いの札とか荷札とか、生活感があって戦国を身近に感じられました。
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子犬のお守り。ころんとしてて可愛いです。

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見えづらいですが左はハエ叩き(?)「為蝿打ンカ造之者也」。

こちらには、ななんと、お出迎えしてくれたカッコいい元春・可愛い広家グッズがあります。アクキーとか、クリアファイルとか、缶バッジとか。ヒイちゃん缶バッジ欲しかったのになぜか渡された箱に入ってなかったんだよ~。売り切れでしょうか、ショック!
あと今思い出したけど、ここに広家の馬印レプリカなかったですっけ? 勘違いでしょうか。気のせいかもしれないけど、なかった気がします(山道に疲れすぎてて記憶が曖昧です笑)。


存分に楽しんだ後は館跡地へ。
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大きな立石を配置する力強い石垣は「石つき之もの共」による仕事です。こういった特徴は厳島にも見られるそうです。

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こちらには蒸し風呂でなく湯殿があります! 吉川家、お風呂大好きですな…。絶対いい匂いですよ。

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庭園。

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歪んだ台所もしっかり確認してきました。床板と敷居がズレまくってるのが見えるでしょうか。本当に豪快に歪んでいます。現地に来て、吉川家の面々が歪みを気にせず過ごしていた気持ちがわかりました。室内の戸は開け放たれていただろうし、畳は勿論や大きな家具もないため中に居ると歪みには気付かないのです。建築に興味ない限りこの歪み完全再現を自力発見した人も少ないのではないでしょうか? こうした密かな見どころはツイッターがなければ知らずにいた事なので、情報発信して頂けるの本当ありがたいです。

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室内に入ると天井の写真ばっかり撮ってしまいます。
 
それから元春・元長・松寿のものとされる墓所へ参りました。
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ようやく、ようやくお目にかかる事ができました。

父・兄・弟を失い、妻をも亡くし、最後に館の主となった広家と吉川家の人々は、折に触れ彼らのお墓へと参った事でしょう。
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広家はこの道を歩き、この景色を見ているのです。
富田や岩国に移った後も、生まれ育ったこの地を、ゆったりとした長閑なこの景色を、きっと懐かしく思い出した事でしょう。館跡に往時の建物はありませんけれど、広家の足跡を追うような追体験ができ感慨深い旅となりました。

満足行くまで堪能した所、バスの時間まであと40分位だったでしょうか。疲れ切って足取りが重すぎたため、どれくらいかかるか自信が持てなかった松本屋敷跡は諦めて休憩しました。心残りですが、万が一早めにバスが来て最終を逃したら、タクシー(電話番号控えてない)かヒッチハイクになっちゃうため冒険はできません。

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バス停が片方にしかなくて、危険な通路側で側溝にハマりながらバスを待っていました。バス来たー!と思ったらスクールバスで、中からこどもが降りてきました。この辺のお子さんという事は歴史を遡ってみれば、縁者としてか、家臣としてか、領民としてか、仕事請け負ったか、いずれにせよどこかで吉川家にご縁を持つご先祖様に繋がるんじゃないかなあ。はあ……。この地の全てが尊くて。もうね…、最高…。
 
帰りのバスも行きと同じ運転手さんでした。乗客他に居ないのに運航していてくれてありがとうバス、そしてさようなら北広島町。徒歩だったのでめちゃくちゃ疲れたけど、本当に来て良かったです!

北広島町に来て良かったと思った事の一つに、各所で無料で持ち帰れるパンフレット類がえらく充実していた事があります。よくある観光チラシとは一線を画す充実ぶりなのです! バスセンターで頂いた小冊子は北広島町の見どころを網羅しているのは勿論の事、さりげなく元春元長広家年表が載っていたり、歴史館では調査結果に基づく過去企画展のチラシなど頂けますし、出土品の写真も惜しげもなく掲載されています。古文書から見た解説などもあって興味を引き、分かりやすい事この上なく読んでいて興奮しました。吉川氏や戦国時代の武将の日常生活や暮らしぶりに興味があるのなら、これらを貰いに来るだけでも価値があるとお伝えしたいです。戦国の庭歴史館は気軽に歴史を楽しめる場所だし、北広島町は家族連れにもお勧めできます! 健脚の方ならハイキングを兼ねて万徳院まで行ってみるのもいいと思います。


さて突然ですが私は時々創作戦国をしていて、小ネタなども呟いています。現パロ(現代を舞台しての戦国武将を妄想して遊んでいる)の輝元さんはバブリーセレブ設定で、ホテルに宿泊してバーに行く140字の小話なんかを書いた事もあります。

で、泊まったホテルから広島城が見えると期待していたんですが、見えない側に宿泊してしまっていました笑。『そうだ!バーに行けば見れるかも、うちの現パロ輝ちゃん気分で!』と思い付いて行ってみましたが、バーもまたお城の見えない側にある気が…。バーの中で反対側に繋がってないかと思いこっそり覗いてみたところ「いらっしゃいませ」と声をかけられました(当然)。勇気を出して「ここから広島城見えますか?」と聞いたらやはり見えないとの事。反対側のレストランからは見えるそうなのですが既に終了していました。一瞬、広島城は諦めて飲もうかとか、飲んでから行くべきかとも思いましたが、明日早いのでやっぱ今行かなきゃ! 正直恥ずかしすぎるんですが、じゃあ申し訳ないけど広島城行きますって引き返しました。客じゃなくなったのに丁寧な謝罪まで受けてしまい恐縮です…。次来る事があればバーを楽しみます!

広島城近辺をどうしても見ておきたかった理由があって、それがこの写真です。上からだったらもっとわかりやすかったと思うけど…。
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ただの道路に見えますね!? 実は広島城が築城された直後の短期間だけあった広家の屋敷跡地らしいのです(芸州広嶋城町割之図にあります)。これもツイッターで場所を教えて貰ったので行く事ができました。古地図で見ると昔は道路ないんですよね。この辺りなのだろうと予測をつけながら写真を撮りました。(誤って道路側歩いちゃってますが危険ですので絶対に真似しないでください)

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夜の(元)輝ちゃん家に来たぞー! ライトアップ終わってましたが…。

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写真だと明るく見えるのですが、現場に立っていると門の中は一層の闇が広がっていてちょっと戸惑うほどで、せっかく来たのに中までは入れませんでした笑。

次はいよいよ最終日です。黒田長政画伯の絵とは一体…!?
しまなみ海道を通って初の四国へGOGO。
↑磯の香りがしそうな素敵な響き、いいイメージしかない!

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  1. 2018/06/26(火) 07:50:45|
  2. 戦国の庭歴史館
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初めての四国!愛媛の旅!

一日目岩国 二日目北広島 三日目愛媛

三日目。今日の予定は愛媛・大山祇神社・河野美術館・松山城です。余裕があれば今治城か道後温泉にも行きたい所ですが…。

4時起床。ホテルからタクシーで広島駅へ(1000円位也)。のぞみに乗って福山まで行き(4950円也)、そこからバスで大三島へ(1750円也)、さらに乗り換えまして(300円也)大山祇神社へとお参りに行きます。高速バスでも行けるんですが、到着時間が数時間遅くなってしまうので新幹線を選びました。くっ…。仕方のない事ではありますが、格安旅のはずが移動費用が痛い……! 無理矢理来るから…。


新幹線に乗る前に、カープ仕様烏龍茶を購入。
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乗り換えのため下車した福山にはお城がありました。
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というか、ここにこのような立派なお城があった事知らなかった…。水野勝成さんが築城主のようです。気になりますがバスに乗らねばなりません。


バスは、こんな感じで島と島を繋ぐ橋をいくつも渡ってゆきます。
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それなのに私、ずっと島ゾーンに入ってる事に気づいてなかったんですよ…。なぜなら島々が思っていた以上にBIGだったから!
最初の方は随分大きな川を渡っているな、いつ島に入るんだろう? と素で思っていました。地理弱すぎですが、島の端が視界に入りきらないので本州の陸だと思っていて、大きな島が点在しているという概念もすっぽ抜けていたのです!

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車窓からは美しい島々が見られます。沢山の島が浮かぶ内海って、私の生活圏内ではこれまで見かける事がなかったので、物珍しく、いつまでも見ていられます。
今日はガスが出ているのですが、それがまた良い…。水墨画でも鑑賞しているような心落ち着く風情と感動があります。座席にだらっと腰かけ、ただぼーっと眺めているだけで刻一刻と変わる風景を楽しめ、より一層贅沢です。
しかし、シャッターチャンスが一瞬すぎる事と、好みの島が撮れても窓の水滴にピントが合っているなどし、ろくな写真がありません。なんたる不覚。これもまた一期一会か…。

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あ~今のもっと見たい…と流れ去る景色を惜しみながら、大三島到着です。形の良い山が見えます! 観音山です。(知らなかったけど今地図で確認した)。


バスを乗り換え、大山祇神社に到着しました。
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この写真もちょっと微妙なんですが、3日目もお天気が悪く、暗すぎ下手すぎ写真が多くて使えるものが少ないです…。

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ここは心落ち着ける大変清浄な空間です。

まるで森のやすらぎ…。
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纏っている空気が違います。


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以上、天井シリーズでした。

宝物館へ。
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お目当ての宝物館はとんでもないお宝ばかりがこれでもかと並べ置かれていて、驚きの体験をしました。
全国の国宝・重文の武具類のうち実に8割がここに収蔵されているとの事(←この得意げな説明、なぜか岩国美術館でみかけました笑)。 まじですか? ちょっと信じられない規模ですね…。それと、中は独特の匂いがします。これが歴史の香り…。

戦国時代には毛利とも深く関わる河野氏ですが、ここにきて初めて関心をいだきました。古く伝統あるおうちだったのですね。ちなみに信長の野望革新やった事ある人にはお馴染みだと思います。このゲームでは有力な家のみ特別な固有技術を開発できるんですが、並居る人気家と肩を並べ河野家も固有技術(焙烙火矢)を持っていました。後のシナリオで河野家スタートは最高難度クラスとしても有名だったりします。うわっ、どうでもいい事語ってしまった。

教科書に出てくるような偉人の奉納に興奮したり、よく分かってないなりに時代の変化を見比べたり、なかなか楽しいです。こういうデザインのバッグかつて持ってた事ある的な熏韋包胴丸と、鳶兜が気になりました。古い時代にもああいう変わった形があったんですね! あとは噂の鶴姫鎧。あの鶴姫の絵はあまりに可憐で美しすぎて、人気が出たのも分かる気がします。時間をかけてゆっくりと見学したかったのですが、そろそろ出発の時間です。


今治到着~。タオルっぽさなし!
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あの看板を見て『まじで?』と思いっきり鼻から空気を吸い込んでみた所、磯っぽい塩気を含んだ爽やかな風を感じました! ほんとに。

いよいよお目当ての河野美術館「戦国ものがたり展」へ。コンビニ店員さん曰く今治城までは歩いて行ったらちょっと遠いとの事なので、まずは予定通り美術館へ行ってみます。場所知らないし天気悪いしとタクシーで行ったんですが、滅茶苦茶近かったです笑。ワンメーター580円で到着。

西郷隆盛と薩摩の明治維新展に加え、地元の写真展もやってました。今年は大河の影響もあり幕末推しの年ですね。幕末は全く知らないのですが、あー大河で入水してた人の書~みたいな趣きがあったり。職員の方が「ここは結構いいものがあるんだけどあまり人は来ない」と仰っていた通り、確かにすごいメンツの展示品でした。

戦国ものがたりの書状、毛利家では元就・隆景・輝元・秀就、他にも謙信・政宗・秀吉、足利兄弟などなど日本史ビッグスター揃い踏みです。多数割愛しましたがぶっちゃけ全員有名人です。

だとしても、特に異彩を放っていたのはやはり黒田長政が描いた絵でした。というかそもそも長政って絵、描いてたんだ…。まずそこに驚いてしまいます。文化方面に興味のある方だと絵も一度は習っていたりするのかもな~って気はしていたのでそんなにビビる事でもないのですが。

絵の方は、うーん、もしこの作品を鑑定団の安河内さんが見たら、笑顔で率直かつ辛辣な評価してきそう、そんな雰囲気の絵です。でも、墨絵の良し悪しを知らない私が言う事ではありませんし、あまりに失礼すぎますよね…。もしこれがそんなレベルの絵だったら、家臣の方が苦言を呈し「下手な絵描いて得意げになって情けない」みたいな話になって、涙を流して止めたはずです! ですので、中々のものかもしれません。

墨が多く、とにかく力強さを感じる筆使いで3本の竹が描かれており、荒々しい筆致の葉の上部を囲うように、時々ふにょふにょ~っとした消え入りそうな弱い線が書かれてるの何だろうなあ?と疑問思っていた所。

『色かへぬ ゑにしも久し くれ竹の 葉にふりつもる 雪を見るかな』
賛を確認して雪だったって事が分かるという驚きの趣向でした。賛は忠之によるものだそうで、親子で合作みたいです。仲良し親子!? 判が押されてたけど、そこらへんから黒田父子作品って分かるんでしょうか。

あとその賛の和歌、書き出しがわずかに中央よりだったためか書き終わる前に端っこまで到達してしまっていて、右側から続きを書く無限ループスタイルになっていました。パパの作品ですから、途中からバランス取りが怪しくなったとしても書き直すわけにも行きませんね…。

いやでも、目測でのアタリもつけずに父の力作に一発書きするとも思えないし、この構図は意図したものなのかもしれません。父子揃って可愛すぎます。見に来た甲斐がありました!

私が長政に関心を持ったのは広家繋がりからなのですが、毛利以外では今一番気になる人物です。こちら側から見る長政という人は「とにかくいい子! 頑張り屋さんで頭が良い」という印象なのですが、黒田家側のエピソードを少し覗き見ると、皆個性的で面白く愛らしく、親しみが湧きます。今回は一枚の絵から、その楽しさの一端を垣間見られたような気がしました。

帰りに、美術館の隣にあった茶室待庵に入ってみました。
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す、素敵だ。
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こういう所すごく楽しい、写真撮りまくれるから!

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またも天井を撮っている…。

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そういえばバリィさん、なんかいたるところに居たような気もします。


最後は松山です。松山までの列車はグリーン車に乗ったんですが、足を真っ直ぐ伸ばせたし、あまりの心地よさに完全に寝入ったので写真はありませぬ。
スケジュールと体力の兼ね合いに無理があり、案の定今治城と道後温泉へは行けませんでしたね…。旅の疲れをいやしに温泉行きたくて最後の最後まで迷ったのですが、やはり現存12天守は見ておきたく、もう天守入場時間は過ぎてたのですがロープウエイに乗って外だけ回ってきました。

松山城。
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すごいです。
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すでに4時半を回っており、お天気も悪かったためここでも写真が残念過ぎるのですが、
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はっきり言って、滅茶苦茶来て良かったです。

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私が見た事のあるお城としては姫路城に匹敵する素晴らしさで、これぞイメージ通りのお城!って感じがしました。

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興味の範囲がやたらに狭い私は、実は松山城の築城主知らないまま適当に訪れてしまったんですが、ロープウエーの袴お姉さんが「松山城は賤ヶ岳七本槍で有名な」みたいな事言った段階で、福島加藤脇坂…ヤバい他のメンバー思い出せない一体誰なんだ~と思ったら加藤違いの加藤嘉明さんとの事で、割と有名な方でした! 

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加藤さんすごいよすごすぎるよ…。

名残惜しいですが、帰宅の時間が近づいてきました。愛媛だんだん、さようなら…!


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ここには三日目の戦利品とお土産類が写ってないですが、ホテルで張り切って戦利品広げてた図です。無料のパンフレットがめちゃくちゃ多いですが素晴らしいので!

旅先で出会った方々は皆さん本当に親切にしてくださり、人の温かさを感じました。四国は生まれて初めての経験でしたが、本当に見どころがたくさんで、素敵な場所でした。

そういえばこちらに来て、生まれて初めて生ガキを食しました。火を通したものは好物だったんですが、これまで生は当たるんじゃないかと食わず嫌いしていました。レモンだけで頂いているのに全く臭みがなく、濃厚な海のうまみがぎゅうぎゅうに凝縮されていて、味わう程に爽やかな潮風が鼻腔に広がり、虜になってしまいました。この事をこの年になるまで知らなかったなんてあまりにも勿体なかった…。今すぐ生ガキ食べたいよ~!


さて今回の旅は、新しい土地の新しい感動もあったのですが、岩国・北広島を訪れた事でこれまでずっと気になってた事とか疑問だった事の答えに少し近づけた気がしたのがすごく良かったです。やっぱ現地で得られる情報量は違うなあ。今改めて振り返ると、これまでに知った事、旅で新たに知った事、点と点だったものが薄っすらと繋がっていく感じがします。その辺は、旅と直接関係ない妄想混じりの話だったりするんで、ツイッターで適当に呟いていきたいと思ってます。

今回の旅はこれにて終わりです。やっぱり西国良い所~!歴史を巡る旅はほんっと楽しいです!

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  1. 2018/06/25(月) 19:57:23|
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毛利一族の関ヶ原、みた

個人的に気になるテーマで面白かったです!感想とか書いちゃう

関ヶ原前日吉川広家&福原広俊が本多忠勝&井伊直政と起請文を交わしたことについてですが、広家だけでなく広俊が出てくる事で「毛利輝元=毛利家の意向」という信用度が高まるってのはそうですよねえ。毛利側も忠勝と直政で信じたわけだし、起請文交わした時点での信頼度や立場はひとまずイーブンかな?!

この事はよく、『本当に所領安堵の約束が守られると思ったの?』とバカにされるけど歴史の結果を知ってるから言える事で、毛利が背後から家康に攻めかかり、仮に万が一歴史が変わっていたとしたら、『そんな所通って本当に攻められないと思ったの?』になった事でしょう。どちらにとっても綱渡り的な面があったんじゃないかなと思います。

それと、輝元が広家の行動を黙認してたってのはさもありなんかなぁー。広家の言い訳の内容みると、一応途中で輝元に状況を報告し命令を待ったというようなことも記されてもいるのですが、返事はなかったっぽいのかな?とりあえず表向きは「知らなかった」で押し切れる形になっている感じはしますね。番組でも触れられていましたが、輝ちゃって薄弱なお坊ちゃまイメージと違って、野心が感じられたリ策を巡らせたり、その一方で保険かけたりと、なかなか狡猾な面ある感じしますな。そこらへんはなかなかどうして、やはり元就の孫なのです。

あとは、秀元が南宮山の陣から尾根伝いに桃配山に下って(広家陣回避ルート)家康を攻める事がそう簡単だったのかは気になるかも。直線距離でわずか3㎞との事だけど、実際は距離も険しさも疲労度もUPしないかな? 
南宮山→桃配山
(3月21日追記:分かりにくいので図にしてみた。グーグルマップを加工してます!)
地図でしか見た事ないんで所詮妄想ですが、道も悪そうだし霧もあるし武装した人1万5千なので降りるだけで時間も余計かかりそうな気はします。秀元が動いてもなんらかの対処出来そうな。そもそも家康がその件に本当に無策でいたのかどうか分かんないですね。

秀元は、内応知っていたにせよ知らなかったにせよどっちみち先陣動かんし、桃配山に攻め下ったとしても家康が陣引いたら挟み撃ちになるのは自分って事も考えられるし、状況と相談しつつ慎重にならざるを得ないよね~。

でも秀元がそっちから攻めたら広家どうしたのか気になるー!あと前も気になった事ある気がするけど、1万5千の兵って南宮山のどこにいたんだろ、陣の所にぎゅうぎゅういた…?のかな…?うーん気になる気になる!


かもん
↑そのうち使うかもしれんと思って描いてたけど面倒くさくて放置してる下り藤の三引両。いつか完成させたい…!

以下拍手コメント返信ですー
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  1. 2017/03/20(月) 20:16:14|
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(本の感想)

ちょっと体調不良気味で絵が進まず。アップできる絵は少しあるんだけど、あまりに汚すぎて微妙に気が進まないのと、あまりにアホ(不健全)すぎてアップしたらドン引きでは……ってのがあって、なかなか!


シリーズ・織豊大名の研究第4巻 吉川広家(光成準治編著)が届いてました。

内容が専門的で、読み進めるの大変! まだ全部読んでません。ただのコレクションになりそうな予感が……、笑。

こういう本ですと真摯に史実と向き合わねばならぬため、「私は自分に都合のいい広家像を妄想して、綺麗な夢を見ていたいんだわ」と思いつつも、ずっとある事柄に関心があったので覚悟して注文しました。期待通り(?)吉川家の関ヶ原後の偽書関連についても触れられておりまして、大変興味深く読めました。

あっ、書状を抜粋した文に説明はありますが通しでの現代語訳はないので意味がつかみきれない部分もありましたけど、それはまあ、私みたいなニワカは本来ターゲットじゃないと思うので諦めがつきます、勉強するしか!(しない)

で、総論だけ読んで興奮してツイートまでしてしまったんですが、私の中で一番興味深かったのは、「(関ヶ原合戦の南宮山における)毛利勢の先陣は恵瓊組とみなすべき」と書かれていた事です。


不勉強この上ない私が疑問をさしはさむなんて本当におこがましいのですが、素人かつあほの立場として、また闇雲に広家を贔屓するものとして、的外れになりがちな事は重々承知ながらも、個人的感想をいわせてください。

注:思いっきりスキキライの感情論と妄想メインで語ってます。

関ヶ原関連の広家案文(言い訳集)が全て信用できると思うかといえば、無論私も、全部は信用できないだろうと思います。やはり、「自分はこういう状況にあって、こういう理由があって、こういうわけで正しかった」と都合よく宣伝したい意図があって残したものだと思うからです。ただ、本書の説明に納得しかねる箇所もありました。

吉川家文書913号で広家が『当手之事ハ南宮山最前之陣取二候』と言っている事に対しては「合戦終結後の広家の主張は全面的に信用できない」とした上で、『土佐侍従陣から御弓鉄砲衆陣、安国寺陣足かかり能候条、是を切崩候てかさ陣へ可切上之由にて候』という記述については信用し「恵瓊を先陣とみなすべき」と言い切り、その後『長大・安国寺ハ人数(打出)たかり候つれ共、両人面白おかしく申候て、御人数出候ハて』という部分では「反徳川闘争決起の責任を恵瓊のみに負わせるためには、戦闘参加に積極的だった必要がある事から事実と異なる記述を行った蓋然性が高い」と書いてあるのですが、『土佐侍従陣から~(略)~可切上之由にて候』についてはなぜその法則を適用しないのかがよくわかりませんで、「蓋然性が高い」というより「可能性は否定できない」程度にしか捉えられませんでした。

ちなみに慶長6年(関ヶ原翌年)に書かれたとされる917号では、広家は「恵瓊は進軍してない。今の世上の讃談とは違う」というような事を言ってます。戦後すぐの日付の案文では「恵瓊たちやる気満々」的な事言っておいて、翌年の案文では真逆の事を主張している事になり、広家が自分の事だけは都合いい事しか書かないのだと考えれば、まあ腑に落ちます。そして、言われてみれば恵瓊先陣だった?と疑わせる記述でもあります。

これは「噂の内容は違う」という訴えなので、「讃談」があったという部分では嘘をつく理由はないと考えます。おそらく本当に、恵瓊はやる気満々で進んだように世間では噂されていたのでしょう。で、一方吉川は……とひそひそされていて我慢ならず、無視しておけば後世に伝わらなかったものを(笑)、どうしても自分の意見を主張したいという広家っぽい率直な理由で記述に及んだのではないかと思います。

「讃談」ですが、これが褒められていたとか評判だったという意味なら、計画失敗した挙句不戦でぼーっと終戦迎えてとんずらした人物にふさわしいとは評価とは思いづらく、やはり恵瓊は立派だったと捉えられていて、やる気もあったしもしかしたらそれが証拠に若干の交戦もした可能性があり、しかしながら毛利本隊は広家に止められてて動かないのでどうにもならなかった、当然止めていた広家の評判はダダ下がりだった、と解釈したくなるし、それが自然な気がしてしまいます。ちょこっと交戦にはなったけど進軍はできなかったという事なら、不足はあれど、913号と917号の主張にさしたる矛盾は生じません。単純に、なにがなんでもやる気があったなら行ける位置にいたのに実際はそんなことはなく、結局進みはしなかったと主張したい程度の意味なのではないでしょうか。

この頃だと軍法も厳しく抜け駆けなどはご法度なのかな~って思いますし、どんだけやる気あっても勝手に進めない事にさほど無理はないと思います。しかし本書の解釈に従うなら、恵瓊が先陣を務め一度は交戦しかけながらもやっぱり軍は止めていた事になり、なぜそうなった?と疑問が残ります。そして、東軍における、先陣福島正則を差し置いて井伊直政らが抜け駆けし開戦となったという話は俗説とも言われますが、霧の具合や布陣の具合、敵の進軍具合によっては、先手近くの一隊が偶発的に交戦しちゃう事ってありえるのではないかと思ってしまう所もありますし。

とにかく、もっとちゃんとした理由とか、他の資料からの補強とかあれば、もう少しすんなり納得できると思うのですが……。


ニワカ知識なのにさらに続ければ、他には、関ケ原合戦3日後、18日付の義演准后日記では「吉川両人於唐口降参云々、比興比興」とあるそうで、広家名指しでおまけに「降参」したと表現しており、卑怯卑怯と口惜しさをにじませています。これによれば広家メインで認識されている事、この事が噂に上っていた事は間違いなく、東軍と起請文を交わしていた事を合わせて考えても、やはり先陣で軍を止めていたのは広家なのではないかと思います(記述者が広家に対して憤っており、西軍に肩入れしていた事をうかがわせるもので、誇張もしくは誤認があるのではと思ったりもしますけど、広家が嘘言ってるってパターンになるんよね……。広家だけ降参したとして交戦とかトラブルになってないっぽい事、または障害物がなくなったのに恵瓊や秀元らがそれを無為に見過ごしてただけなんて変かなあっと。やはり勝手に軍を止めていたか、あるいは南宮山勢暗黙の方針とか消極性と考える方がしっくりする)。

まあ思うも何も本人が動かなかった事認めてるし、仮に先陣が恵瓊だったらその通り暴露して悪いのは恵瓊と言えばいいだけの所を、なぜ自分が動かなかったのか必死で言い訳していますからね。いかに本家のためを思っての事かと語る理由や経緯に誇張なども含まれていると考えられ、おまけに、いかに自分の働きが大きかったかという手柄をねつ造気味に強調したものだから真実が見えにくくなっているという話ですね。

黒田家等に正文がない3点に関しては、私もやっぱりねつ造気味のストーリーが追加されていると思ってますが、吉川家のこれら案文が自分たちに都合がいいだけの宣伝なればこそ、広家の働きかけに家康が心動かされたとかいう逸話は当然事実でないという事になり、この案文が当時何らかの効果を発揮したとは思えません(といっても、後に広家が息子宛て書いた訓示には、両御所様のご憐憫浅からず、忘れるなって事も書いてますから、徳川方も広家の功績は認めそれなりに便宜を図っていたものと思います。広家が岩国に行ったのは、ほかならぬ家康の意向があっての事です)。要するに、みな合戦の経緯を把握していてその記憶を持っている時期に、少し聞き取り調査すればわかってしまうようなことを、自家にだけ残したこの案文でいくら捏造しようが戦後処理に対しては無力で、「責任を恵瓊のみに負わせるため」という目的は後世に向けてしか機能できないように思うのです(まあそれが問題ですよね、笑)。

それでいて結局のところ毛利では恵瓊だけが処刑されたという事実をみましても、徳川方からすれば、仮に恵瓊が先陣を務めて動かなかったにしても考慮もされず、重大な責任があると見做されていた事は間違いなく、広家は色々と自分に都合のいい事言ってあるんだろうとは思いますが、そんなにまでひっくり返されるされるほど荒唐無稽な内容なのかなーというのが率直な感想です。佐野道可事件の事もあり、まるで吉川のいう事は全く信用できないと思わせる印象になっていますし(家格問題のあれこれとか陰徳太平記とかあって実際にそういう節はあるかもだし、今は関ヶ原合戦関連で無条件に信じられてきた俗説を見直し、実像に近づけていこうというフェーズなのだと理解してはおりますが……)。


最後に、無知なくせに好き勝手言ってしまいましたが、こういった形で広家の本が出るという事自体がありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。もっともっとー!


今後、きっとさらに研究や再検討も進んでいって、私の中の広家ドリームは(史実としては)破壊されてゆくのかもしれないけど、独立心強くて御し難い所とか、目的に猪突猛進で回り見えなくなる感じとか、身体ょゎぃぽいけど戦はっょぃぽい所とか、それでいて看病頑張っちゃうところとか、やっぱ可愛いと思います。そして、関ヶ原のアレは、時代が変わって家中でどんな立場になろうとも、祖父元就の遺言を忘れることなく、また父元春、特に一人毛利を支え続けた叔父隆景に倣い、毛利家のためを思っての行動だったのだと信じています。

11/24誤字修正加筆
  1. 2016/11/23(水) 23:55:38|
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旗馬印絵図?

『旗馬印絵図』?

↑いろんな武将の馬印や旗指物が載っています。検索してたら見つけたページなんだけど、なんなんだろ? 

表紙の漢字はいきなり読めませんでしたが、「Hataumajirushi ezu」とタイトルがあったので辛うじて理解できました。国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで見られる寛永年間出版の『御馬印』シリーズ(国立国会図書館デジタルコレクション様)と比べると、信長や信忠、秀吉や秀次などメンバーが被っている部分では、大体同じものが描かれていますが、びみょ~に違ったりしてます。

『御馬印』6巻には、『旗馬印絵図』と同じメンバーが沢山出てくるので見比べてみた所、『旗馬印絵図』の佐々内蔵助の馬印には”三階菅笠”が描かれていますが、『御馬印』6巻の方では”三階菅笠”は蒲生飛騨守の所に描かれています。なぜ~?って思いましたが、蒲生氏郷が佐々成政の馬印を欲しがって頑張った逸話(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ様)がありましたね……。あと、筒井順慶の部分は、『御馬印』6巻の佐々の絵と同じものな気がしますが、さて。

ページをめくっていくと「関原陣(?)」と書かれた所から、『筑前中納言(小早川秀秋)』、『備前中納言(宇喜多秀家)』、『石田治部少輔』、『島津兵庫(島津義弘)』、『小西摂津守(小西行長)』、『大谷刑部』、『平塚因幡(平塚為広)』、『安国寺』の順に旗指物や馬印が出てきます。書かれてるメンツ的にも、やはり関ヶ原合戦の頃のものって感じですよね。恵瓊の馬印かっけーです。いかした坊主ですね。しかし、三成の旗指物といえば「大一大万大吉」のイメージが強いですが、こちらに描かれているものは真っ白です。その他の武将のものも、商品化されたりして現在よく見かける図案とはちょっと違う気がしませんか。うーむむ。色々わからなくなってきました。


さらにめくると「関ヶ原陣」と描かれたページが見つかると思います。でもすぐ隣のページに「大阪陣」って書いてるし、よくわかりません。そのページには「長宗我部宮内少輔」「長束大蔵」の旗が書かれていて、その後のページにいよいよ「吉川」が出てきます。

吉川氏旗指物馬印
(参考画像。吉川 大馬印 馬印 馬印 自分之さし物) なんで吉川だけ名字オンリーなんだい……!?

吉川氏の家紋といえば、輪九曜あるいは三引が有名かと思いますが、「吉川」の旗指物に描かれた下り藤の三引両紋も、吉川家のものですよね。吉川コーナーの馬印では、婆々羅の馬印に似た惜しいやつがあるっていうか、パワーダウンして熊手っぽくなったものが載ってます。これはさすがにちょっと物足りないというか、折角の馬印なのに目立たないのではというか、なんか変な事ないですか……? あと、「摩利支尊天」ですって! 元就所有とされる軍旗にもその名が書かれていたし、元就公も信仰していたとネットで見かけました。お爺ちゃんの影響もあるんでしょうか。お爺ちゃん大好きっ子でしょうか。『自分之さし物』の、瓢箪のようなしゃもじのような物は一体なんでしょうかね。これ自分が指したんですかね? 黒いもふもふも目に付きますが、吉川広家の三巴鎧にも黒モフついてたし、私ももふもふ大好きです、気が合いますね!

けれどここに描かれた吉川の旗と馬印は、どれも見た事がありませんでした。といっても、婆々羅の馬印くらいしか調べた事なかったんで、元よりよく知らないんですけどね。

吉川コーナーが終わると、「島原寄手旗馬印」コーナーになります。つまり島原の乱の事ですよね。これはのちの時代にまとめて描いたものなのでしょうか。この絵図はいつ頃書かれたものなのか、そしてどれくらい正確なのか、割と気になっています。


*読めない文字はMOJIZOで調べました。正確じゃない部分もあるかと思いますが、ご容赦を。間違いや気づいた点等あればご指摘いただけるとありがたいです。
  1. 2016/10/05(水) 20:06:14|
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吉川広家と関ヶ原の戦い

広家は関ヶ原において一体何を考え、何をしていたのでしょう。吉川史料館の「吉川氏の関ヶ原展」展示品をもとに、私の勝手な憶測・感想なんかも交えて書いてみたいと思います。


注:ものすごく広家贔屓目線です。


吉川家文書917(広家の言い分覚書案、慶長6年)によると、福原広俊・堅田元慶も恵瓊の主戦論に反対していたようで、他にも、益田元祥が広家・熊谷元直・宍戸元続と相談し、7月の毛利輝元大阪城入りを阻止しようと動くも間に合わなかった旨も書かれていました。このため広家は黒田長政を通じ「輝元は企てに無関係」という密書を送り、徳川家康から了解した旨の返事(8月8日付)をもらっています(吉川146)。しかし安濃津城攻めが決まり、東軍との関係を疑われまいとした広家はこれに参加、勝利するも多数の死者が出、長引けば毛利はどうなるのかと思い輝元へ状況を報告し、御諚を待ったそうです。

他、今回展示されていたものを時系列にまとめると、広家と交渉を続けていた長政は安濃津城攻めにおける広家のハッスルぶりに焦ったようで8月25日付の手紙で返事を催促しています(吉川148)。9月3日には長政の父黒田如水からも手紙が来て家康情報がもたらされます(吉川155)。9月12日、広家は国元の家臣に、敵より味方の方が多いが兵が一丸となってない事など伝えています(吉川家文書別集632)。

917号に話を戻すと、広家は、家康と敵対することに一貫して反対だった立場を主張しています。端折りつつ抜き出すと「……輝元と家康は兄弟の契りを交わしており謀反する理由がない。奉行衆に属す宇喜多秀家と小早川秀秋はまだ若く九州勢は遠方すぎる。朝鮮の役以来奉行衆は軍略がないと批判されてる。家康は今や八ヶ国を領し、有力大名はみな東国に属している。毛利元就も天下を望むなと戒めていた。勝ったとしても実権は奉行衆に握られるが、家康に属せば心遣してくれるだろう。……合戦当日、遅れていったら石田三成敗北の知らせを聞いた。西軍優勢だったとしても起請文があるから攻められない。関ヶ原まで二里あり、池田輝政ら1万の兵がいた。当日は霧で見通しが悪かった。高松城攻めた羽柴秀吉と和平貫いて感謝&安堵された事を小早川隆景が折々自慢してたけどこれと同じ事と思ってる。長束正家と恵瓊は主戦論を言っていたが当日は進軍してない。……」などなど、西軍に着く事がいかに無益で困難だったか理路整然と、というか必死に訴えています。

私自身、広家に関しても戦国時代に関しても詳しいとは言えないため、まだまだわからない所は多いのですが、8月あたりから開戦までにかけての動きには、関ヶ原前哨戦に位置づけられる戦などを経て周囲の状況を見極めようとしていた部分もあるのかなと思ったりもします。

広家はこの覚書案の中で「9月13日家康が赤坂に着いた時、治少と大刑少が大垣南宮を捨てて山中に引いたけどこれは前日の軍議決定と違う」って事も書いていますけど、本当は関ヶ原の戦い前日の14日到着らしいです。ここらの記述に疑義があるみたいですね。ただの記憶違い・書き間違いか、はたまた……?

14日といえば、折しも秀秋が松尾山を占拠した日なので、西軍主力はそれに対処すべく大垣から引き返したのではという話をネットで見かけました。この記事とか(中部発:読売新聞様)。松尾山城は西軍の重要な拠点で、西軍の背後を容易に突ける位置にあり、これを放置すれば後方と遮断され逆に西軍が孤立するというので、絶対に無視できません。一気に引き返した事にも納得いきます。

しかし、一枚岩でなかった上にこのような事態が起こったとすれば、意思疎通もスムーズにゆかなかったかもしれません。西軍側からすれば「南宮山勢やる気あるの?」という疑念があっただろうけれど、上の記事にもある通り、挟撃の機会を無視し味方を残さず主力が皆退いたとあらば、このままだと真っ先に家康など東軍とかち合うのは自分たちのみであり、「見捨てられた?」と不審感を抱いた事は十分に考えられると思います。そして勿論ここでも、秀秋の動きで西軍が危うくなった事は予測できたはずです。

広家は、元より西軍は勝てないと踏み東軍に通じていたとはいえ、この時点でもまだ西軍に転じるルートは残っていたわけですが、西軍の突然の計画変更でこれまでの算段が狂い、にわかに戦況が悪くなった事を感じさせる土壇場でのこういった出来事は、最後の決断への後押しとなった事も考えられる気がします。いずれにせよ、このような状況がわかっていながら、東軍を切って乾坤一擲のギャンブルに出る理由はないでしょう。

そして同14日、広家と広俊は井伊直政・本多忠勝と起請文を交わし(吉川149)、翌15日の合戦では動かず、秀秋は西軍に攻めかかりました。結果、ご存知の通り1日持たず早々に東軍の勝利が決定します。

今は、秀秋は様子見をせず、開戦と同時に裏切り三成方は瞬時に敗北したという説があるんだそうです(関ヶ原合戦の真実、白峰旬氏。未読ですが……)。そうであるか、それに近い事が起こっていたならば、仮に、霧が晴れるのを待って毛利が山を下り攻撃したとしても、家康を背後から脅かそうと池田隊らを相手しているうちに主戦場で勝負がついてしまう可能性が、尚の事高まると思います。そうなった日には、減封だけでは済まなかったのではないでしょうか。ともかく出来過ぎのようなこの結果には、関ヶ原の戦いの趨勢に奇妙な巡り合わせを感じてしまうというかなんというか、特に秀秋の働きは未来でも見えてた?ってくらいすごすぎる気が……。


霧の山
岩国城から山の方を撮った写真。お天気が悪く、霧が出てました。幻想的ー。


当時の武将たちはやはり戦が長引くと考えていたようで、「中国を攻めて華々しく一戦しようと思ってたのに内府が早く戦終えて残念」という、有名な如水のお手紙も展示されてました。私としては、軽口というかジョークを含んだ発言のように思えますが、もっと長引けばというのは本音かもしれません。仲の良さが伺える気がします。余談ですが、9/3の如水書状では「内府が上方に進軍するから気を付けて、かち合わないよう分別肝要よ、上方の面々は家康と悉く内通してるよ」ってな感じで気遣いつつもしっかり広家を口説いてて、東軍のためばっちり働きかけています。

今回の企画では、関ヶ原から14年経って大坂冬の陣の頃、三成への思いを綴った広家の覚書(吉川918)も展示されていました。これによると広家は三成に冷遇されたと感じていたらしく、具体例を列挙して愚痴ってます、笑。 一瞬なにそれ~(でもちょっと可愛い)って思ってしまいましたが、まじめな話、辛い思いをした側はその事をなかなか忘れられないものですよね。私が同じ立場ならば、あまりの軽んじられっぷりに心折れてるし、積極的に味方しようと思えなくても当然と感じてしまう所です。とはいえ、ちょっとしたすれ違いからどんどん悪く捉えてしまうってのもままある事ですし、意図的な仕打ちだったのかはわかりません。けれど、結局関係修復もなされぬまま、おそらく嫌いだったのでしょう。そう考えると先の言い分にも悪し様に言った所とかあるのかも?って気もしたりしなかったり、こういうお手紙にも色んな事情が垣間見えるようで大変興味深いです。


いずれにせよこれは、重臣らとともに毛利の行く末を案じたがゆえ、最善を考えたゆえの行動だったはずなのに、結果は防長二ヶ国に減封だったため、批判の矢面にたつ事となって苦悩し続けたのでしょう。ううっ私も悲しい。大丈夫、わかるって伝えたい! 総大将まで務めてお家が存続し大名で居続けられたというのは、結構すごい事だと思います。どちらもその後の気苦労はすごかったでしょうけれど……。


広家が戦っていれば秀秋も裏切らず西軍が勝っていたのでは?という疑問は、実を言えば私自身もずーっと思っていた事で、そうであった可能性は勿論否定できないし、もし攻めかかっていれば今頃はと、冷ややかな目線を送っていた関係者の気持ちも理解できる所だったりします。例えスケープゴートだとしても。評価の分かれる広家ですが、いまは私は、宗家のために英断だったと思っているし、好きな武将の一人です。


みみずくの手水鉢
上田宗箇が広家に送ったみみずくの手水鉢。吉川家墓所にあります。お目目まん丸で大変愛らしいです。猫っぽい!


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   本編、岩国の旅はこちらー
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9月21日、追記&リンク追加
  1. 2016/09/19(月) 22:55:24|
  2. ★戦国雑記
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岩国、吉川氏の関ヶ原展、広家、イエー!

吉川史料館の吉川氏の関ヶ原展行ってきました。リアルっぽい事はあまり書かないつもりでしたが(何しろ書く事ない)、岩国は別!ぜひ書きたい、書かせてもらいます。

「吉川氏の関ヶ原展行きたいなぁー。でもちょっと遠いしお金ないし無理だなー」とずっと渋ってたんですが、「もうすぐ吉川氏の関ヶ原展終わってまう……」と思ったら居てもたってもいられず、行ってしまいました。吉川氏の関ヶ原展については2日目に詳しく書いてます!


●1日目●
錦帯橋
錦帯橋を渡り

吉川家墓所
まずは吉川家墓所へ。吉香公園の奥まった場所にあり、緑に囲まれた清閑ないい所でした。

吉川家墓所内
中は迷路のようになっていて

吉川広家様のお墓は山っぽいところにひっそりと
吉川家墓所、広家様
この上にあります。山がちなおかげで蚊に刺されまくりました。かゆ、つら。ゆっくりしたかったけど早々に退散。戻ってから数えたら合わせて30か所食われていました。痒いわけです。でも「岩国の蚊、吉川の蚊、広家の蚊!」って思ったら全然許せるっていうかむしろ「食って」くらいの気持ちになります(適当)。

1日目の目標は吉川史料館だったのですが、錦帯橋→ロープウェイ→岩国城セットのチケットを買ってしまったため、まずはそっちを消化せざるを得ないという気持ちに。ロープウェイで城に向かうも、城に着くころにはザアザアと雨が降ってきてしまいました。傘、ホテルに忘れてきた……。
岩国城
岩国城。このお城が建てられたのは関ヶ原後なのに、周囲をぐるっと川に囲まれた山城だったり、大きな空堀があったり、非常時脱出口になるとも伝えられる大井戸があったりと実戦を意識したようなスタイルであるところを見ると、尚も有事に備えていたのでしょうか。

『世紀を越えて繋ぐ情熱 岩国藩の歴史そして錦帯橋』のDVDでは、「再び世が乱れる事があれば、吉川家は毛利の先頭となって戦い毛利120万石を回復したいと考えていたからで、山城は毛利家への忠誠心の現れ」と言っていました。ああ、泣ける……。

一方で、広家が岩国入りした事には、福島正則と共に忠勤に励むようにとの家康の意向があったようで、『岩国藩財政史の研究』でもこの事に触れられており、「毛利に対する抑えとしようとしたのであろう」とか書かれていました。うわあ~、そうなの? なんて複雑な立場。でもこの後ろ盾(?)があったから残れたとかそういうのもあったりするのかな……。

様々な思いを含んでいたこのお城は、一国一城令によって、結局わずか7年で破却されてしまいます。切ないな。

城内見物之後、城跡の石垣観察。
岩国城跡旧天守台石垣

岩国城跡旧天守台案内
岩国城跡旧天守台。本当ならここにお城があったんですね。今の天守閣より少し離れた場所にあります。もっと奥まで見たかったけど雨が降り止まず下山を決意。

帰りは二の丸付近でしばし立往生し、雨が弱まった隙をついて岩国美術館へ。この時点で足の腫れと痛みが気になって歩みが遅々として進まず、一応全部見て回ったものの展示物が全く頭に入ってこない……。とはいえ豪華で見ごたえあったので図録?的な本欲しいかなと思ったけど値段に戸惑い、保留。明日史料館みて買うもの買ってからまた来よう!

夜は晴れたのでう飼いを見に行きました。2時間前に申し込んだためお弁当を用意してもらうのは無理で、う飼い見物だけになってしまいました。
岩国う飼い
屋形船に乗り込み、うちわで夜風を扇いで涼をとりつつ、錦川の黒い水面に映える提灯やかがり火に、ライトアップされた錦帯橋とお城を眺めれば「ここは岩国なんだな」と感慨深く、存分に堪能できました。「なにこれ優雅すぎじゃ?そういえば私殿様だったっけ」

岩国う飼い2
しばらくするとガアガア言いながら鵜がやってきます。拍手すると鵜が喜ぶらしいので(本当?)必死に拍手してました。鵜、くるしゅうないー。まあちょっと苦しそうだけど、可愛い奴です。なんでも序列に煩いらしく、長幼の序を弁えず若い鵜が先に並ぶと年長の鵜が怒るんだそうです。面白い。


●2日目●
朝、ホテルの露天風呂にチャレンジ。山を見ながらのお風呂、良かったです。また殿さま気分。

岩国佐々木小次郎像
岩国との関係は知りませんでしたが、佐々木小次郎像です。なかなかイケメンでポーズもカッコイイです。後ろから撮ってみました。

そしていよいよ念願の吉川資料館へ。ねばるぞー!
吉川史料館

吉川家年表
入口にあった吉川家の年表。広家の所だけ大抜粋。

中では早速広家自筆書状を拝見しました。

あー。この前に広家公が座って、筆をさらさらと、こう、こう、こんな感じで動かしたんだよね。400年の時を超え今はただ私の目前にあり、こうしてその存在を証明してくださる。感激せずにおられましょうや。

そもそも広家の字って、なんか可愛いくないですか? 小さめで丁寧な文字は猫のようにしなやかだったり丸っこくて、これ絶対可愛いよー。古文書見ると、流麗とか力強いとか癖強いとか色々思いますが、可愛いとか思う事はあまりない気がします。贔屓目? くずし字読めないし書道も出来ないのに何言ってんだろって感じですが。

関ヶ原後の輝元様の書状(お酒と大根ありがと、秘蔵して大切にするーっていう萌えるやつ)もありましたが、やはり毛利家当主を感じさせる鷹揚かつ大胆な筆跡で私には難易度高すぎて、少しも判別できませんでした……。

黒田如水・長政父子が広家に情報を流したり(調略)、配慮しているお手紙がありました。官兵衛のお手紙を読むと、広家は官兵衛を気遣っていた事が伺え、きっと懐いてたんだろうなーって感じがしました。官兵衛も官兵衛で、「日本がどう変わろうと私たちの間は変わりません」とか言っちゃってるし、官兵衛にこんなん言われたら嬉しくなっちゃいますね。才知に優れているだけでなく、人当たりも良かったのでしょうね~。なんとなく、官兵衛なら手玉に取るのも容易かもって思ってしまう所もありますけど、笑

撮影禁止のため、このお宝自筆書状の数々は心に焼き付ける他ないのが残念でなりませんが(史料館の本に少数ながらも自筆写真載ってます)、とりあえずめちゃくちゃメモってたら、史料館の方に声をかけられました。
「メモしてるからもしかしたらと思って……、展示品の書き下し(解説文と現代語訳が載ってました)ありますよ、100円になってしまいますが」
な、なにそれ!そういうシステムなんだ。史料館とか初めてなので全然知らなかったです!買う買う絶対買う!!ああ、なんて親切なのでしょう。なんかメモってた自分が恥ずかしくなって「ヤダー」とか言ってしまいましたが、心からありがたく嬉しく、感謝してもしきれません。吉川史料館素晴らしい、大好き!神対応すぎて旅の間中テンション上がりっぱなし、もうこれだけで旅の元取れたと思いました。

あとこうもおっしゃってました。
「メモを取ってる方よくいらっしゃるんですが、言ってくれればあるのにーって」
メモ取ってる人よくいるんだ~。私が居た時は一人もおられませんでしたが、そんな方とお友達になりたいです。あでも私、表層的な興味が強くてニワカ抜けきらない人で、メモってたのも単なるミーハー心からであり物覚えすこぶる悪くてすぐ忘れるし、そんな真摯な方とはやっぱ話あわないのかな、気が引けるよな……(コミュ障ネガティブ)。

吉川氏の関ヶ原展解説文
こんな感じで、展示品の解説とか現代語訳が全部載ってました。なんたる神!というわけで、こういったものを史料館で用意されているようなので、ほしい方は尋ねてみてはいかがでしょうか。ひょっとして常識だったり?

さて関ヶ原関連についてですが、あまりに長くなりすぎていたので、別ページに移しました(;´・ω・)。展示品の中から書状、主に吉川家文書917号(関ヶ原合戦について広家の言い分)を中心に、私見というか贔屓目線で色々書いてます。


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   吉川広家と関ヶ原の戦いはこちら
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書状以外で気になったのは、婆々羅馬印鏡・柄です。慶長の役の際、加藤清正が籠った蔚山城は厳しい戦いを強いられますが、日本軍が救援に駆け付け勝利を得ます。その際清正は、真っ先に明軍へと突っ込んで活路を開く活躍した三引両馬印の将が誰なのか気になりました。その将こそは、吉川広家公その人なのでした! 清正は広家に感謝を伝えるとともに、「でもその馬印、なんかこう、見えづらくない?」って事で、自身の馬印を進上したいと申し出ました。広家もこれを所望し、かくして婆々羅の馬印を使用する事となったそうです。この逸話大好き。馬簾部分をいれたら全部で4mになるんだそうですよ。

元となった加藤清正の馬印は、たぶんこれ(国立国会図書館デジタルコレクション様)かな? ちょっと汚れつつ「むましるし」と書いてある所の扇形の絵です。たしかに形同じだー! 清正の馬簾は9本ですが、廣家のは13本まで増えて色も赤へと変更され、さらに派手になっています。こちらには広家馬印の写真が載ってます(大朝郷土資料室/ひろしま観光ナビ様)。レプリカかな? すごく広家っぽさ感じる!

朝鮮の役で使用したと伝えられる三巴具足にも目を奪われました。胴の大きな三巴の上に、九曜紋に似た小さな装飾が5つついているのですが、外の丸が12個もついていて(十三曜?)虹色にキラキラと輝き、これがまたお花っぽくて可愛いんです。 細部まで手が込んでいて品があり、こんなの着て戦場に行くなんて勿体ないとか思ってしまいました、笑。 これが私だったら、この美しい鎧にちょっとでも傷がついたらやる気失って引きこもるレベルですのに、どれほどゴージャスなんでしょう。戦国武将ってめちゃくちゃ美意識高いですね。

最後に広家肖像画もまじまじと眺めました。いやあっかっこいい! Wikipediaでも見られますけど、あちらは模写です。本物の方がより優しい表情で素敵です。お父上の元春様の肖像画から比べてもなんか面長で、きっと特徴をよく捉えた肖像画なのでしょうね。そんな所でも個性を感じさせる広家たまらんです。なんとも幸せなひと時を過ごせました。


もうこの時点で旅の目的は達したのですが、メモ取らなくてよくなった分時間ができたので徴古館にも行ってみました。
徴古館
しかしながら下調べもしておらず展示品についてもよく知らなかったため割とすぐ退散。建物がレトロで美しかったです。なんと無料です。旧デザインの絵ハガキまで無料で置いてあったので1枚頂いてきました。岩国の歴史に興味がある方は訪れる価値があると思います。

目加田家
目加田家。いっぱいブレブレ写真撮った。

シロヘビ館へも足を延ばしてみました。意外にもめちゃ可愛かったです。あと、私存じ上げなかったのですが、漆原友紀先生の原画が飾られていました。なんとラッキーな巡り合わせなのでしょう。自分自身が絵を描くようになった事もあり、白蛇よりも興味深く観察してしまいました。すまんシロヘビ。展示されていた絵は淡めの塗りでしたが、パワーを纏っているかのようですっかり魅了されました。生の絵って素晴らしいな……。先生へのメッセージ帳も用意されており、ファンの方々が描き残した素敵なイラストも堪能させてもらいました。やっぱ紙に描けるっていいな、デジタルオンリー寂し。ていうかデジタルオンリーにしても、私ほど紙に描けない人もまずいないだろうけど!

その後時間が余ったので、死ぬまでに一度は行ってみたいと思っていた宮島へ。
宮島の鹿
鹿かわゆ。

干潮が18時台だったので時間的にもちょうどよく、足が棒になりながら大鳥居まで行ってみました。
厳島神社大鳥居
大きいー。荘厳ー。すごーい。やばーい。語彙たりなーい。ここで毛利さんと陶さん戦ったんだよね?と"厳島の戦い"と"三子教訓状(元就公が厳島への熱い思いを語ってるあたり)"ウィキペで確認して、浸っときました。

厳島神社
でも18時だと神社しまってんのね……。なんとなく消化不良のまま岩国へ戻りました。


●3日目●
いよいよ帰宅の日。帰る前にまた広家様のお墓へご挨拶。
岩国の山道
正面からだと遠いので今度は裏から。

吉川広家初代藩主
今日はコンビニで買った虫よけスプレーも用意したし対策バッチリです(錦帯橋付近ですと、コンビニはなかなか遠い気がします)。しかしながら岩国の蚊、強し。虫よけスプレーを全く気にしない強者にまた何カ所も刺されてしまいました。ああ幸せ(錯乱)。

広家様墓所内
広家様墓所エリア。みみずくの手水鉢がちらっと見えます。再びここにこれたらいいな。というかもうずっと岩国に居たいー。

という思いを断ち切って新幹線で広島へ。3日目ともなると引きこもりの足はまるで象の脚かのようにパンパンにむくみきり、ただの歩行にさえ著しく支障が生じたため、やむなくそこらのビルにあったマッサージ店へGO。マッサージとか人生初ですよ……運動不足だしもう完全に年だわ。足つぼマッサージをしてもらうも、痛すぎて息を切らしながらギャーギャー叫びまくってしまいました。情けないのう。むくみはあまり治らなかったけど、終わった瞬間足が軽くなり、足裏の痛みがすっかり取れました!

いざ広島城。
広島城門
輝元と正則ゴイスー。折角フォトショなんで、背景から目立つビルとか消してみました。

広島城は二の丸が楽しかったです、写真撮りまくれたので。
二の丸の中

二の丸の中2
二の丸内部

二の丸の中吉田郡山城
吉田郡山城模型

そして天守。
広島城天守
中で可愛い女の子の二人組が椅子に腰かけ、うんうんと頷きながら熱心に毛利家動画を見ていたので、幽霊のように背後から便乗して見ていると、二人が私に気が付いて席を空けて譲ってくれました。なんたる天使!ていうかお友達二人で城めぐりとか羨ましー、いいなー、いいなー。でも私が誰かと一緒に旅行ったら「足痛い」「疲れた」とか言ってたびたび進めなくなって迷惑かけるだろうからそんなの望むべくもないわ……。もう足が辛すぎたため、気もそぞろのまま天守まで。旅の全工程終了だー。


戦利品?
3日間の戦利品?

あとゼリーとかもみじ饅頭とか、自分用にお酒とか。ぱらっとめくってフィーリングと値段の安さを考慮して買ったのですが、思った以上に少なかった!あー弁当食ってる場合じゃなかった。ケチケチして、色々と購入を諦めてしまった事を今になって悔やんでしまいます。あっ、美術館の図録買いに戻るのも忘れてた!


岩国と広島ほんと楽しかったです。疲労困憊であまり空腹感じなかったのですが、料理もおいしかったです。岩国寿司と大平、レンコン天ぷら、お好み焼きにカキなど頂きました。旅行中の食事で茶碗蒸しが2回出てきたんだけど、どちらもぎんなん入ってなくて嬉しかったです!思い切って行って本当によかった、充実した旅ができました。


でも、岩国戦利品、まだちゃんと見たわけじゃないんですが、吉川家の御膝元なだけあって広家様の苦労や頑張りが丁寧に描かれているんですよね。それを見ちゃうと、妄想によるふざけた絵とかくだらない漫画描くの、ものっすごい気が引けますね。ううっ、ごめんなさいホントに……。でも描く……。好きだから……。


9月19日  関ヶ原合戦についてのページ分けました。
  1. 2016/09/10(土) 17:33:49|
  2. 吉川氏の関ヶ原展
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