広家、小田原来てたんだ!?って話

小田原と言えば…
SAMURAI館の北条五代絵
北条五代!

北條早雲公像
伝説の火牛、北條早雲公像。いきなりテンション上がる~!

なのにどこ行っても毛利の話ばかりで本当にすまない…!
小田原城にて、吉川広家に関した新たな気付きがあったので記します。まずはこちらをご覧ください
小田原城と小田原合戦攻防図
「小田原城と小田原合戦攻防図」、いわゆる布陣図に小早川隆景と吉川広家の名があります。

小田原布陣図拡大
オレンジ色に関しては史料、地形の位置関係から仮定した陣場との事なのですが、景さまの方が城寄りの陣に想定されています。まだ若さの残る広家を、経験豊富な景さまが守るイメージでしょうか…? くっそ萌える~~!! ……じゃなくて、ビックリじゃないですか?

いやどうなんだろ、詳しい人からしたらビックリでもないか笑
私がビックリした理由を聞いてください。
(以下、資料等を参考に、主に小田原合戦時の毛利家の動きについて確認していきます。興味なかったら下の『小田原・早川の旅へ』までどうぞ! 写真沢山載せてます✨)。

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史料編纂所の古文書データベースの秀吉朱印状から確認できる小田原出征時の隆景・広家の動向は、以下のような感じです。
・天正18年2月24日(吉川家文書115)、広家が星崎に入る事を伝えており、
・同4月2日(吉川家文書117)、星崎を景さまに渡し岡崎に入るよう指示があり、
・同5月24日(吉川家文書732)・6月15日(小早川家文書371)等では、宛所が「星崎 清州 羽柴筑前侍従どの(隆景)へ、岡崎 羽柴新城侍従どの(広家)へ」となっているので、景さまは清州と星崎を預かっていた事が分かります。

こちらにある岩国市史では
秀吉はその後天正十八年(1590)小田原の北条氏政を征伐したが、広家はこの戦争には参加せず、その命によって同年三月十二日手兵五百をもって尾張の星崎城(愛知郡星崎村)の守備に当たった。しかるに同年四月十八日この城を隆景に渡し、三河の岡崎城(額田郡岡崎町)の守備に当り、後方防衛の大任を果した。
と書かれていました。

また大日本史料総合データベースで紹介されている書状によりますと、
三月十五日広家公より佐々木平兵衛へ賜ふ書に、今月十二日星崎入城候、当城之儀灘手にて万自由候、今度我等人数武具以下馳走之段、殊外被成御褒美候条本望ニ候
とあり、3月12日に星崎へ入った事は間違いなさそうです。広家、軍備を褒められて嬉しそう…!

景さまに関しては、3月中旬頃清州城に入ったようで、5月25日付け乃美景宗の書状によると「小田原一途滞留被仕之由」とあり、また、小田原に居たと思しき景さまが6月24日付けで島津義弘に宛て子息又一郎の消息を伝える書状があるのだそうで(福岡市史資料編近世1。書状は小田原市史史料編中世にも掲載されてました)、いつまでかはわかりませんが、景さまが小田原に行っていた事は確実と見てよいでしょう。

あと「小田原城と小田原合戦攻防図」看板では、下田城攻略メンバーも海上に布陣していますが恵瓊さんの名はありません。山口県文書館の小田原陣仕寄陣取図でも恵瓊さんの名は見られないようです(まぁそれ言ったら隆景広家の名も載ってないんだけど笑)。恵瓊さんはずっと下田にいたって事なんでしょうかね? イマイチ調べが及ばず。

ひとまずこのように、データベースにある書状や書籍からは、景さまが清州城星崎城を預かりつつ小田原へ逗留した様子がわかるのですが、広家の場合、確実に言えるのは星崎・岡崎に居た事のみでした。このため私は、広家がずっと岡崎で留守番していたものと思い込んでおり、「小田原城と小田原合戦攻防図」で陣を張っている勇姿(っていうか凸)を見てビックリしたのでした。

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とはいえ、実は陰徳太平記には広家が小田原に居たと思われる記述があるのです。この書物は史料とは言い難いので半ば忘れてましたが、ここへ来て気になったので抜粋してみます(といいつつ私は裏付けが取れるものに関して信頼できる記述があると見ています…!)。

陰徳太平記 巻第七十五 相州小田原攻付落城事より
五月二十日殿下の命にて、羽柴侍従広家朝臣岡崎より小田原へ下り給へば、小早川侍従隆景朝臣清洲より下り給。殿下頓て(やがて)両人を御前へ召され慰労の仰せ有て後、当城如何なる行(てだて)を以て早速没落すべき、此事相談すべき為に召下し候上は、両人所存の旨聊か残さず申されるべし。中にも父元就、尼子が城を攻る事七年にして陥れられたる終始の計策親り(まのあたり)存知の前なれば、其儀をも申されるべしと台命也
この後景さまは「広家は当時4~5才だったので」と言い尼子攻めを語った後、秀吉に献策します。
ん~、4ちゃいの広家ちゃん可愛い!

続いては別の場面
斯て隆景広家暫く小田原に逗留在けるが、広家此程自然の様に煩ひ給ひける故、殿下早く岡崎へ帰て保養を加ふべき仰せられ、延寿院玄朔法印を差添られける間、広家岡崎に帰り服薬有ければ程無く平癒し給けり
いけない! 広家が早速具合悪くなってる…。小田原の水が合わなかったのか…?

別の資料も見て見ます。

大日本史料で検索したら出て来る吉川家譜でも、上と似たような事が書かれているようです。
五月下旬秀吉公小田原陣所より隆景公広家公を召されけるに、星崎岡崎の両城に兵を残し置き小田原に至らしければ、秀吉公本陣の近所馬廻衆の陣屋を明させ旅宿に仰せ付らる。秀吉対面あつて元就公の先年尼子を攻められし終始を聞玉う。(中略)其頃広家公病気おこりければ、秀吉公より延寿院玄朔法印を付られ、岡崎へ帰り養生し玉ふ
ん? まさか景さまと広家は同じ陣屋、つまり一つ屋根の下に泊まったというの!?
……萌えようと思ったけど叔父上が厳格そうなのでイマイチ捗りませんでした、無念…!

ちなみに、黒田家譜にも二人の記述があります。こちらでは広家が岡崎に居た事が記されるのみですが、景さまについては詳細に、小田原に呼び出された話を記しています。

黒田家譜巻之五 天正十八年より
爰に秀吉公は小早川隆景を、此時尾州清洲に置給しを呼下し、謀を議し給ふ。隆景答ていはく、此度の長陣は、たやすく御勝利あるべき基にて候へば、一段然るべく存候。(中略)秀吉公其旨にしたがひ、下知し給しかば、身方の諸軍戦をやめて、此山かしこの陣所にも謡舞囃子の音踊の声頻に聞えける。是に依て身方は長陣の窮屈をわすれける
やはり秀吉が隆景の意見を聞いた事が記されています。流れ的にはなんとなく陰徳太平記と似てる気がしますね。

続いては別の場面
其後孝高隆景敵の機屈したる時節を考へ、今ははやよき時分にて候、家康は東国の案内者にて、殊に北條と縁者にて御座候間、家康と御相談被成和議に被成候はば、城中退屈の時にて候間、必同心仕るべき由申上られければ、秀吉公実(げに)もと思召ける
黒田家譜ではここに官兵衛が登場します! この難攻不落の小田原城攻略について、二人話しあっていたみたいです。なんていうか、こう、互いの知性を信頼しあって「香炉峰の雪」みたいなオシャレ会話ぽんぽん交わしてたんだろうな……。この二人想像するだけで良いわぁ。


ちなみに、石垣山城跡から岡崎城まで、グーグルマップでは232㎞の距離となっていました。供回りなど少数で馬を用い、1日40㎞移動できるとすれば約6日の距離です(船は知らない)。新幹線でさえ「静岡長いな」と感じる距離ですが、中国だの九州だのから遥々やってきた事を思えばこの距離でも全然行けそうな気がします。

何より、この時期の秀吉朱印状を見ると景さまと広家はセットで扱われている感じがするし、景さまが行ってたなら広家も行ってそうだよなぁ…みたいな。広家も小田原に行った可能性は充分にあるように思います。よく分からん結論ですみません!

この件に関して何か御存じの方おられましたら是非教えてください。新たな事が分かったらまた更新します。

それと後述しますが、早川あたりは小早川氏発祥の地らしいのです。景さまの瞳に、この地は一体どのように映っていた事でしょう…?

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・2020年1月7日22:35 追記
この事に関してツイッターで検索してたら気になる情報がありましたので、引用させてください。恥ずかしながら調べが足りず全然知りませんでした!

加藤清正宛の榊原康政書状写は広家が小田原に居たという重要な手がかりになりそうでめっちゃ気になります! 詳細ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください…!

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・ではいよいよ小田原・早川の旅へ!

写真の編集が地味に面倒で笑、毛利に関係ない所はいいかぁ…と思ってたんですが、記事も書いちゃったし折角写真も撮ったので、張り切って載せてみます!

レンタサイクルを借り、小田原城とその南側の早川を中心に訪れてみました。ここの電動自転車すごいですね~。漕ぎ味は羽が生えたように軽く、どこまでも行けそうな気がします。実際調子に乗って急坂をグイグイ進んでたら道に迷って一夜城の方行きかけてました。流石にそれは遠くて無理…!

・まずはここ、北条氏政・氏照の墓所
小田原市、北条氏政・氏照の墓所
駅に程近い「おしゃれ横丁」の一角に、北条氏第4代当主氏政とその弟氏照の墓所があります。御覧の通り、柵に無数の鈴が結び付けられています。これは「幸せの鈴」といい、願いをかけて鈴を持ち帰り、叶ったらここへ結ぶのだそうです。
こんなにたくさんの願いを叶えてくれた北条氏は現代でもやはり民思いなのです…! 毛利以外で領民になるとしたら、やっぱ北条氏がいいなって思いますもんね~。


・小田原城へ!
到着するなりガイドさんに色々教えてもらいました。お茶壷道中の際、小田原城の御茶壷曲輪に壷を置いていたそうで、「ずいずいずっころばし」の歌はその時の様子を表しているとか、動物園に猿だけ残ってるのは、童謡「お猿のかごや」で小田原提灯をぶら下げてるからだとか色々。唄に関係しているのが面白いし、書物からも得難い伝承をこうして聞けるのは楽しいです。

・常盤木門
小田原城常盤木門

・天守
小田原城天守
イベントでもあったのでしょうか、コスプレしてる方が大勢いました。和装風のキャラとお城はよく合うでしょうねぇ。
それでは、いざ入城です! なんと2階以外は撮影OKとの事で、お写真撮ってきました。

小田原城、全国「天守」高さ比べTOP10
小倉城でも同じようなパネル見ました。ひょっとして色んなお城にこういうパネルがあるのでしょうか…? コンプリートしたい。

小田原城の模型
小田原城の模型

小田原城天守模型
小田原城天守模型
本物の模型も展示されてるんですが、写真だと映り込みが激しくて…。

・城内の甲冑!
小田原城、鉄錆地四十八間筋兜
鉄錆地四十八間筋兜(戦国時代カ)。後頭部が盛りっとしてるところがなんか良い!

小田原城、黒漆塗本小札紺糸威銅丸具足
黒漆塗本小札紺糸威銅丸具足(江戸時代中期)

小田原城、本小札紫糸素懸威腹巻と横矧桶川二枚胴具足
本小札紫糸素懸威腹巻と横矧桶川二枚胴具足(いずれも戦国時代)
手前の子には去年別の場所でも会いました。小田原城に戻ってきたんですね。元気そうで何よりです。へへ。

それにしても、見た目的には3階位に見えていたのに展望デッキは5階にあって、階段がキツイです。
途中踊り場で御婦人に「お先にどうぞ」と言われ、『私も登るの遅いから忍びないよお…』って思いつつ、折角のご厚意なのでありがたく先を行かせてもらいました。
譲っていただいた手前、いつもの1.25倍くらい頑張って階段登りきりました! 息切れがすごい…。
小田原城天守から海を見る
おお~良い眺めです! 海が見えると一気に絶景度上がりますね~。

小田原城天守から石垣山一夜城方面
こちらは石垣山一夜城方面です。向こうからこちらを見てみたいものです。


・常盤木門SAMURAI館
常盤木門SAMURAI館
かっこいい鎧が展示されており、しかも写真撮影OKなので最高でした。

こちらは具足の注文書と、注文された具足の展示です。
具足の注文書
注文書
イメージイラスト的なものとか要らないんだね~。どんな注文内容なのか7割方わかってませんが、具足を見るに納得の出来だったのでしょう。こういうのが残ってると一層面白いです。会場では本物の書状が展示されているので是非足をお運びください!

啄木糸威二枚胴具足(江戸時代初期)
啄木糸威二枚胴具足
アスペクト比間違ったかな?って一瞬思いましたが多分あってます。兜、ちょっと長いです。これが注文書にある「ないぜんはち」…?🤔

左から本小札色々威丸胴(江戸時代初期)、本小札紺糸威腹巻広袖付(安土桃山時代)、縹糸素懸威最上胴丸(室町時代末期)
本小札色々威丸胴、本小札紺糸威腹巻広袖付、縹糸素懸威最上胴丸
こうやって見ても江戸初期、桃山時代、室町末期の時代感がよく分かりません。
ところで、この3つから好きなの1個あげるって言われたらどれにしよう…?(言われない)
めっちゃ悩むけど縹糸素懸威最上胴丸好きかな…!!

萌黄糸素懸威最上胴丸 兜鉢名「義通」(室町時代末期)
萌黄糸素懸威最上胴丸 兜鉢名「義通」
やっぱこの感じ好き~。なぜかはうまく説明できないのですが、素懸威しの、『自然界にこういう警戒色放ってる生き物いそう』感が好きなのかもしれません。「私を食ったらどうなるかわかるな?」っていう派手な圧っていうんですかね…。とにかく強そう!

兜コーナーも割といろんな角度から見れます。おすすめです!
samurai館の兜

鉄黒漆塗六十二間筋兜 銘「天文十一年壬寅五月吉日 明珎教家(花押)」(室町時代末期)
鉄黒漆塗六十二間筋兜 銘「天文十一年壬寅五月吉日 明珎教家(花押)」
上部を覗き込むのは難しいですが、写真なら手を伸ばせば上からのアングルが撮れます。

鉄黒漆塗六十二間小星兜 銘「上州住成國作」(安土桃山時代)
鉄黒漆塗六十二間小星兜 銘「上州住成國作」
これかっけぇー! こういうのどうやって作るんかな…。 この紐って何の意味があるんですか? おしゃれ!

こちらではプロジェクションマッピングも併せてご覧になる事をお勧めします。「後ろに侍がいる!?」と思わせるような出だしにイキナリ引き込まれるし、幻想世界に浸れてとても良かったです。


・図書館へもGO
小田原市の図書館はお城の敷地内にあります。小田原城で気になった事を即調べられるスタイル。なんて最高なの! 今回は観光優先で来たので圧倒的に時間が足りませんでした。次回こそはたっぷりと時間を取って……と思ったけど、今年(2020年)の3月に駅の方へ移転しちゃうみたいです。駅が近いなら帰りに立ち寄れるし、それはそれで便利ですね!


・ここからは城外です。清閑亭へ行きました。
清閑亭
小田原城無血開城の立役者といえばやはり黒田官兵衛ですよね! 現在にそのような痕跡が残っている訳はないのですが、黒田家ゆかりの建物という事で、お城に程近い清閑亭へも足を延ばしてみました。建物は国登録有形文化財ですが、入城無料です。

清閑亭・黒田家 略系図
清閑亭は明治期に侯爵黒田長成によって建てられた別邸だそうです。黒田長成は、官兵衛から数えて14代目なのだとか。

環境の良い小田原は、当時の富裕層から別荘地として支持を受けたようです。黒田家ご当主もこの地へ邸宅を建てた事により、実に14代の時を経て、小田原合戦で活躍した藩祖の父と運命的再開を果たすのですね…、ロマンチック~~!(妄想激しい)

清閑亭内部にはカフェもあり、なんとこの建物の中でお茶やケーキなど頂けます。しかもお手頃価格!
カフェ清閑亭
眺めの良さに惹かれここに座ってたんだけど、冬なのに日当たりが良すぎて焼かれて暑いので、座布団席に移動しました笑 スコーンと紅茶を頂きました💖

私など歴史人物に気軽に萌え滾っている訳ですが、ここでくつろぎながら伯爵の当時の暮らしぶりを想像すると「住む世界が違うなぁ…」なんて思っちゃいます。
清閑亭2階
素晴らしい建物と眺望により、存分に伯爵気分に浸れました。ゆっくりと贅沢な時を過ごしたい方にお勧め致します!


・早川方面へ
小田原といえば地味に見逃せないのが、小早川氏発祥の地という事です。小早川氏の始祖土肥遠平が早川荘を領したとの事で、まさにこの早川付近らしいのです。だとすれば、景さまがこの辺りに立ち寄った可能性は大いにあるんじゃないかという気がしてきませんか? 関東で景さまを感じられる場所は大変貴重です。景さまの残り香はいずこ…!?

・早川口遺構
総構 早川口遺構の看板
道路沿いの杭によりますと、「後北条氏が天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに備えて作った大外郭(総構)の一部」なのだそうで、北条氏時代の貴重な遺構です。

早川口遺構
今はベンチが設置され、公園になっています。

・早川の流れ。
早川の流れ
川の先は海です。この海を豊臣の軍船が大勢で取り囲んでいた様を想像すると実に壮観ですが、籠城していた兵や住人たちはさぞかし不安が募ったのではないでしょうか。
左岸が小田原城方面で、川を挟んだ右岸の早川方面に豊臣軍が陣を展開していたようです。いざ攻めるとなったら、バシャバシャと川を渡っちゃうつもりだったのでしょうかねぇ。


・居神神社、水神社
居神神社
御祭神は三浦義意公、此花咲耶姫命、火之加具土神との事です。こちらの神社は北条氏綱公によって整備されたと考えられているそうで、なんとなく氏綱推しな感じがありました。

居神神社・勝って甲の緒を締めよ
こちらは北条氏綱公の名言「勝って甲の緒を締めよ」の碑です。

実は御朱印が欲しくて初詣をここに決めました。「北条氏綱公」の名があるんですもの! 授与所ではお茶を出してくださったり、時間をかけ丁寧に御朱印を書いて頂きまして、とても感激しました。


・大久寺、大久保一族の墓所
小田原合戦後に城主となったのは徳川家臣の大久保忠世さんです。小田原城を近世的な城郭に整備したのは、新たに藩主となった大久保氏や稲葉氏と言われています。
大久保氏は、2代目忠隣の代に改易されてしまいますが、忠隣の孫忠朝が再び小田原に入封します。大久保氏の小田原復帰は実に71年ぶりの事だったそうです。

大久寺 大久保一族の墓所 案内板
ここ大久寺には、そんな大久保一族の墓所があります。

大久寺 大久保一族の墓所
大久保氏の辿った歩みに歴史を感じながらお参りさせていただきました。


・海蔵寺、堀秀政供養塔
海蔵寺と堀秀政の墓 案内板
堀秀政さんは名人と呼ばれ将来を嘱望された人物ですが、ここ小田原の陣中に没しています。

「小田原城と小田原合戦攻防図」のオレンジ色の凸はあくまで仮定ですが、めっちゃ拡大して見てみると、海蔵寺よりもう少し東に秀政の陣が置かれています。その東側に里見義康陣、もっと東に小早川隆景陣、吉川広家陣と配置されていました。もしかしたら、景さまと広家もこの辺りまで来ていたかもしれませんね……。

海蔵寺と堀秀政の墓
墓所には塔が4つばかり並んでいます。どれがそうなのか分かりませんでしたが、お参りさせていただきました。

ところでWikipediaみて驚いたのですが、ここ小田原海蔵寺に夜叉九郎こと戸沢盛安の墓があるのだとか…? 隈なく探したわけではないのですが、私は見つけられませんでした。
彼は秋田から野を超え川を超え小田原へ急行し、秀吉と謁見出来たにも拘らずこの地で没してしまいます。彼もまた、長生きしていたらと惜しまれる人物であります。
広家も体調崩してたしなぁ…、攻める側も過酷だったのかもしれません。

海蔵寺から海を見る
この墓所からは海が一望できます。今は皆、美しい海を眺めながら静かに休んでおられる事でしょう。彼らに思いを馳せ、海蔵寺を後にしました。


・最後に、今回の戦利品
小田原戦利品!
小田原城には様々な図録があったのですが、とりあえずオーソドックスな1冊を購入しました。こちらは天守や城内に展示されているパネルや書状などが掲載されており、小田原合戦に興味を持っていた私としては満足度の高い一冊でした。

SAMURAI館の冊子「展示案内」もお気に入りです! 1企画につき4pほどですが、丈夫な紙に展示品が載っています。ただでさえ財布に優しいお値段なのに、一度買ったら新たな展示分だけ購入すればよい親切設計になっており実にありがたいです。見る時バラけるのでどうやって保管しようか悩み中です。

それにしても右のクリアファイル、かなりの商売上手だと思いました…!
小田原城に限らず売っている品かも?とは思うんですが、多数の武将が掲載されており、それぞれ相関図とか関係図とか名鑑とか興味をそそられる内容となっていて、推しを確認次第手に取っていたら3つも買っていました。未使用クリアファイルがどんどん増えていく~。

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